『講談るうむ』トップページへ戻る講談・連続物ページへ メールはこちら |


講談連続物『柳沢昇進録』あらすじ

(やなぎさわしょうしんろく)




《解説》
柳沢吉保(1659〜1714:やなぎさわよしやす)は徳川5代将軍・綱吉の時代に甲府15万石を領した大名であり、将軍から寵愛を受けて、大老格として幕政を牛耳った人物として有名である。講談の『柳沢昇進録』はそんな吉保が権謀術数をめぐらせながら出世していく様を描いた読物であり、神田派の方を中心に連続物として演じられている。『お歌合わせ』『徂徠豆腐』などは独立して掛けられることも多い。

【(1)吉保の生い立ちの巻】

 のちには22万3千石という大大名に出世した柳沢吉保。幼名を弥太郎といい、父親はわずか150表取りの最下層の旗本であった。母親は継母で、実の子である市松にばかり目を掛ける。母親との折り合いが悪く、弥太郎は屋敷を出奔、京都・西陣の医者で母方の叔父にあたる川並容山(ようざん)の世話を受ける。容山には「おさめ」という娘、つまり弥太郎のいとこがいる。さる公家の屋敷に奉公していたが、身体を壊し、今は家に戻っている。やがて弥太郎とおさめは割ない仲になり、容山も二人の仲をを認める。父親から、継母とその子供の市松が亡くなったので、家に帰ってきて欲しいという便りを貰う。容山からは、浅草寺の脇、弁天山に住む隆光という占い師を紹介される。弥太郎はおさめを連れて、江戸へと戻る。

【(2)隆光易占】

 3代将軍家光の御代のこと。京都から来た「お万の方」という側室がいる。お供として連れて来たのが、可愛らしい娘で「おたま」という。父親は京都で八百屋を営んでいる。おたまは絶世の美女に成長し、やがて家光公のお手がつく。まもなく懐妊し、生まれきた子供には徳松君と名付けられる。これが後の5代将軍、綱吉公になる。
 家光の長兄、家綱は病弱でお子様がいない。そこで弟の綱吉が西の丸に跡継ぎとして迎え入れられる。おたまは桂昌院と名が変わる。しかし下賤の家の出ということで、酒井雅楽頭が綱吉の跡継ぎと認めない。綱吉の運勢を占ってもらいたい桂昌院は、牧野備後守に相談する。備後守は浅草寺の脇、弁天山のそばにすむ隆光という易占者に占ってもらう。隆光は僧侶であったが人を殺め、占い師になっていた。隆光は、綱吉の運勢は大吉で次の将軍に間違いないと言う。喜ぶ桂昌院と牧野備後守。隆光は兄弟同様の交わりである柳沢弥太郎をお取立て願いたいと、備後守に頼む。これをきっかけとして柳沢弥太郎、のちの柳沢吉保は出世していくことになる。

【(3)お歌合わせ】

 柳沢弥太郎は、ある日組頭である備後守の屋敷を訪れる。備後守は、桂昌院様から歌の会に呼ばれており、お題を頂いているが、良い歌が頭に浮かばず困っていると言う。弥太郎は妻の「おさめ」に相談すると、京の都で生まれ育ち優れた歌の才のあるおさめは早速歌を詠む。この歌は桂昌院が催す歌の会で備後守が詠んだ歌として披露される。見事な出来に桂昌院は感心し、備後守にはたくさんの褒美が与えようとするが、備後守は恐縮してしまう。実はこの歌は組下の柳沢弥太郎という者の作であることを告げると、桂昌院は是非その弥太郎で会ってみたいと言う。
 弥太郎は桂昌院の御前に参上する。桂昌院は即吟をせよと言うが、弥太郎には歌の才などまるでない。弥太郎は、先の歌は妻のおさめが詠んだものであると白状する。
 翌日、おさめは桂昌院の前に召される。桂昌院はお題をだすが、おさめはすぐに見事な歌をつくって披露する。すっかり感心した桂昌院はおさめに莫大は褒美を与える。
 これからお染は事あるごとに大奥へ伺い、和歌の添削をするようになる。桂昌院とお染、両人とも京の都の出身である。お互いに話が合い、桂昌院はお染を大いに気に入る。一方弥太郎は、これを足掛かりに桂昌院の子である五代将軍・綱吉公との関係を深め、得意の弁舌と社交術でもって出世の階段を駆け上がっていく。

【(4)采女探し〜(5)采女の巻】

 五代将軍綱吉は男色の気があって小姓ばかりに興味があり、正室の信子には手を付けようとしない。将軍家にお世継ぎとなる子ができないとは一大事。母親の桂昌院も大変気にかけていた。側用人の牧野備後守から相談を受けた貧乏旗本、柳沢弥太郎は一計を案じた。京へ向かい、一見男性と見えるが絶世の美女である者を探し出し、小姓の装いをさせ綱吉にあてがおうとする。そして探し出したのが采女(うねめ)という女。采女は弥太郎の養女となった。
 計略通り、酒宴の席で綱吉は小姓姿の采女に興味を持ち、手を付けようとしたがすぐに女性だと分かる。怒り心頭の綱吉。しかしこれは一向に女性に関心を向けない自分への、桂昌院の思し召しだと分かり、母親孝行の綱吉は、結局采女に手を付けた。いつしか綱吉は采女に夢中になる。采女は正室である信子も相手にするように綱吉を諭す。言葉に従って綱吉は、信子の元にも通うことになる。やがて采女は懐妊する。将軍は喜び、弥太郎は2500石のご加増になる。お子様、徳松君が誕生になると1万7500石に加増になる。今度は御台様も懐妊になり、姫様が誕生する。弥太郎は3万7500石、武蔵国川越の城主、柳沢出羽守吉保となり、老中職にまで出世する。

【(6)刀屋の巻】

 徳松君は3歳で亡くなり、後を追うように采女の方も亡くなる。我が子と最愛の采女の方を失い、綱吉公の御落胆は並々ではない。柳沢も出世の手掛かりを失う。牧野備後守は采女に代わる綱吉公を元気づけるような女性をまた探してほしいと、柳沢出羽守に依頼する。
 芝の三島町の裏店に荒浜次郎右衛門という芸州広島の浪人がいる。手習いの師匠をしていたが、今は中風に罹り苦しんでいる。妻を「おしん」、娘は18歳で「おたか」といい、三島町小町と呼ばれている。年の暮れで20両の金が要るという。おたかは自分を吉原に売ってくれと言う。近くに住む荒物屋の市兵衛は元・女衒で、おたかを吉原に売る世話をして欲しいと頼む。しかし、次郎右衛門が娘の身売りを許さない。その代わりに先祖伝来の刀を売って金を拵えて貰いたいと言う。
 刀は市兵衛が預かり、友達の刀屋、権兵衛に見せる。この刀は藤六左近将監国綱(とうろくさこんしょうげんくにつな)の鍛えた刀だと権兵衛はいう。市兵衛が事情を話すと、権兵衛は35両を無利息、ある時払いの催促なしで貸そうという。この話を隣に住む、柳沢吉保の腹心、曽根権太夫の耳に入る。35両の金で刀を受けだす。次郎右衛門と話をつけ、おたかを吉保の養女にもらい、采女に代わって5代将軍綱吉の側室となる。

【(7)将軍饗応】

 采女と我が子を失った綱吉公は気鬱で仏間に閉じこもったままである。上様に大名諸侯の屋敷に御成を願い、ここで目先の変わった催しをお見せして楽しんで頂こうということで話がまとまる。能・狂言、平家琵琶、老人ばかりの素人相撲。最初のうちは楽しんでいた綱吉だが、そう毎日違った催しができるはずがない。似通ったものが多くなり、綱吉も飽きてきてしまった。
 貞享4年10月、綱吉公が神田橋の柳沢出羽守の屋敷へお目見えになるときが来た。当日は老中からお小姓まで総勢200人が綱吉公にお供する。柳沢が綱吉公に御覧にいれたのは、能で演目は『楊貴妃』である。途中で麻裃を身に着けた牧野備後守が登場し、采女の方の魂を呼び寄せるという。すると舞台正面に生前そのままの采女の方が現れた。采女は舞台中の岩室の中に消える。綱吉公は柳沢に連れられて大広間へ来る。采女と思っていた美女は、柳沢の養女、「おたか」であった。おたかの後ろには柳沢の妻、おさめ、その他選りすぐりの美女が20人ほどが控えている。綱吉公は左右から酒を勧められ酩酊する。それから牧野備後守の案内で次の間へ行くと、吉原の造りになっている。さきほどの美女たちは遊女の装いになっている。美女のなかでもおたかとおさめの美しさは際立っている。泥酔した綱吉は左右からおたかとおさめに支えられご寝所へ入る。
 千代田の城ではいくら待っても綱吉公が帰ってこない。留守居役が馬を飛ばし、神田橋の柳沢の屋敷に向かう。すると廊下にいたのはおたかで、寝所で綱吉公のお相手をしていたのはおさめであった。将軍が家臣の女房を寝取ってしまった。
 おさめがすっかり気に入った綱吉公はたびたび柳沢の屋敷へ赴き、寝所を共にする。また養女のおたかにも手を付けるようになる。綱吉公のお気に入りになった柳沢は加増を繰り返し、ついには17万石、甲州府中の大大名へと出世し、名も美濃守に改める。綱吉公はおさめやおたかを相手に泉水に船を浮かべてお楽しみになるが、ここでひとつの騒動が起こる。

【(8)浅妻舟】

 江戸時代、洒脱な風俗画で有名になる英一蝶(はなぶさいっちょう)が、まだ多賀朝湖(たがちょうこ)と名乗っていた頃の話。豪商の紀伊国屋文左衛門は今日も大勢のお伴、文人墨客を連れて吉原へと赴く。宴席に同席した朝湖は足元に1本の女性物の扇が落ちているのを。見つける。見ると湖に一隻の舟が浮かび、そこに貴人と白拍子姿の一人の女性が乗た絵である。家に戻った朝湖はさっそく拾った扇の絵を元に下図を描き始める。宝井其角(たからいきかく)の案でこの絵に『浅妻舟』という名を付ける。絵草紙になったこの絵は江戸の市中で飛ぶように売れ、大評判になる。
 この頃、吉保の妻「おさめ」が将軍・綱吉公と通じていた。しばしば吉保の屋敷内の池に舟を浮かべ、おさめとともに遊興にふけっている。いつしか『浅妻舟』の絵は将軍と吉保の妻、おさめを描いたものだとの噂が人々の間で広まる。これは将軍を愚弄するものだとして、朝湖は役人に捕らえられ、三宅島への流罪が決まる。別れの際に、島ではムロアジの干物を作る作業をさせられるが、干物のエラには松葉を挟んでおく、もしエラに松葉が挟まった干物を見たら私のことを思い出してくれと言い残す。
 それからエラに松葉の挟まった干物はないかと探す其角。ついにエラに松葉の挟まった干物を見つけ、朝湖の母親に見せて喜び合う。
 やがて島にいる朝湖は手紙を出すことが許されるようになる。朝湖は其角宛てに島での様子を伝え、また残してきた母親の身を案じる長い手紙を送る。
 ある年の正月、朝湖は初夢を見る。自分が蝶々になって懐かしい江戸の町へと戻り、母親と再会する夢だった。この夢は正夢だった。松が明けて大赦で朝湖は江戸への帰還が叶う。これを機に朝湖は英一蝶(はなぶさいっちょう)と名を改めて、ますます名を高め、江戸期を代表する絵師のひとりになったという。

【(9)白菊金五郎(上)】

 江戸の元禄のある秋のこと。向島の土手を踊りの師匠の小菊、800石の旗本、壺井帯刀の次男の金五が歩いている。抜けるような美男・美女である。2人ともほろ酔い気分である。秋葉神社の傍らで、沢田源十郎、入江八九郎、小林惣七の3人が、小菊と金五を襲う。2人が仲が良くなったのを沢田が逆恨みしたのだ。小菊は斬られ、続いて金五はチャリンチャリンと3人とやり合う。そこを通りかかったのが、15万石の老中、柳沢吉保とお供の曽根権太夫である。柳沢の命で権太夫が金五に加勢をし、沢田と小林は斬られ、入江はその場を逃げ出す。金五は両手を付いて礼をいう。小菊は懇ろに弔った。金五は仏間に閉じこもって毎日供養をする。
 逃げ出した入江の家はお取り潰しになったが、壺井の家はそのままである。これでは喧嘩両成敗ということにならないが、すべては柳沢の計らいであった。金五はこの柳沢への恩をいつか返さなければと思っている。
 柳沢にはしばらく絶えている大老になりたいという野心がある。しかし邪魔になるのが、彦根藩の藩主、井伊掃部守直興(いいかもんのかみなおおき)で、なんとか取り退きたいと常々思っている。この野望を察したのが、勘のいい金五。柳沢のために掃部守を暗殺を考える。
 金五は、酒、女、バクチと放蕩を重ね、壺井の家から勘当されるがこれはわざとである。金五は神田お玉ヶ池で人入れ稼業をしている元壺井家の家臣、上総屋吉兵衛の世話を受ける。金五は背中一面に菊の彫り物を入れる。色が白いので、白菊金五郎と呼ばれるようになる。

【(10)白菊金五郎(下)】

 正月になり、金五は柳沢の屋敷を訪れる。24日は2代将軍・秀忠の命日で、芝・増上寺に井伊掃部守が代参に訪れるので、そこで命を狙えといわれ、短刀を受け取る。
 芝・増上寺に池上了山という坊主がいる。仏門に仕えているくせにバクチをするという悪坊主である。金五は、了山にバクチで拵えた100両の借金を棒引きにする、さらには品川の遊女屋で遊ばせてくれると言う。その代わりに24日の日に増上寺の御霊屋を見たいと金五は頼む。ご代参のある日は番人でさえ近寄ることは出来ないと了山は断るが、なんとか見たいと金五は懇願する。23日の夜に訪れるということで決着は着いた。
 1月23日の夜、塀を越えて金五は増上寺に忍び込む。番人小屋では了山が待っていた。これを着れば怪しまれないだろうと、金五に掃除人足の法被を着せる。2人は酒を飲み、了山は寝てしまう。起きると金五がいない。あまりに取り締まりが厳重なので怖くなって逃げたのだろうと思う了山。
 朝になり、増上寺を訪れた井伊掃部守は本堂にて法要に列席し、その後2人の家来を従えて御霊屋へ参詣する。手水鉢の傍らに隠れていた金五は刀を持って飛び出す。掃部守に斬りかかろうとする。家来の者は斬られながらも、金五を捕り押さえる。
 金五は掃部守の屋敷の庭先に連れてこられたところで、舌を噛み切って死ぬ。金五が持っていた刀から、黒幕は柳沢であると知る掃部守であった。

【(11)隆光の逆祈り】

 綱吉公は柳沢吉保の妻のおさめ、さらには養女であるおたかに手を付ける。おさめは懐妊し男の子を産む。子供はおたかの子とされ、綱千代と名付けられた。
 しかしすでに、綱吉の兄で甲府宰相であった家重の遺児、綱豊(つなとよ)を養子に迎、次の将軍にすると公言している。実の子である綱千代に将軍職を継がせたいと思う綱吉。大老の井伊掃部守に話をするが、掃部守は承知しない。そこで綱吉は柳沢吉保に相談。吉保は親交のある隆光大僧正を使うことを考える。隆光は護持院から綱豊を逆祈りし調伏する。
 ある夜、綱豊は床に就く。八ツ(深夜2時)ガバッとおき上がり「悪魔、さがれ」と声をあげる。狂ったように暴れまわり、家来を刀で斬りつけ怪我をさせる。家来の者たちも手の付けようがない。七ツ(午前4時)綱豊はバタリと倒れてまたスヤスヤ眠る。昼間のうちはなんともない。
 こんなことが続き、綱豊は骨と皮ばかりにやせ細る。これを聞いて密かに喜ぶ綱吉。隆光を紹介し、綱豊のいる西の丸御殿に祈祷所を造らせて隆光に祈らせる。
 井伊掃部守が、一晩綱豊のお側に付くことになる。掃部守が部屋を下がると、なにやら金鈴のリンリンという音がする。隆光という者が病気平癒の祈りをしていると言う。隆光のいる部屋をのぞくと、外へ外へと振るはずの金鈴を内へ内へと振っている。これは悪魔を呼び入れている。逆祈りだ。
 掃部守は、自身の屋敷から取り寄せた弓矢を、綱豊の頭上に放つ。矢は綱豊の頭をかすり後ろの柱に当たる、綱豊は絶叫して倒れる。続いて掃部守は隆光の祈祷している部屋へ乗り込んで、壇上の隆光を蹴り落とす。退散する隆光を捕まえずにそのまま逃がす。これはもしも捕まった隆光が綱吉公に命令されたと自白したら大変なことになるからである。隆光が去った後、祈祷所の床下を見ると、六本の釘を刺された「まむし」がおり息も絶え絶えになっている。このまむしが死んだとき、綱豊も命を失うという手筈だった。釘を抜くとまむしは元気になり外へと出ていく。同時に、綱豊の病気も平癒するのであった。

【(12)光圀公・淀屋との出会い】

 綱吉公は、我が子綱千代のために、将来、摂・河・泉の3国、100万石を与えるという書面を認める。柳沢はまたひとつ、計略を考える。日本を東西に分け、西の大坂城には綱千代君を置いて、西方の33ヶ国をここに参勤させるというものである。そのためには西方の大名の関心を買っておかなければならない。
 お金が必要になり、柳沢が目を付けたのは北浜の淀屋辰五郎という大坂随一の豪商である。3年前に初代辰五郎が死に、二代目辰五郎が継いでいるが、まだ21歳の放蕩者である。「町人の分際で贅沢は不届きである」と柳沢は莫大な財産を没収し、家は改易。没収した財産の十中八九は柳沢の懐に入った。淀屋辰五郎は、これまで大名諸侯に貸したお金をいくらかでも返してもらおうと諸国を旅するが、落ちぶれた姿に門前払いされるばかりである。
 さて、水戸光圀公は隠居して、常陸の西山においでになる。家来である宮野原進左衛門、朝比奈弥太郎という2人を連れて、東海道を上り京の都へやってくる。
 一軒の飯屋に入った光圀公一行。食事を終えると、松の木に雁が数十羽泊まった絵が描かれている衝立(ついたて)に目が留まる。飯屋の主に聞くと、寺からの払い出し物で市で求めたものだと言う。この絵のいわれが分からない光圀公。
 すると衝立の向こう側で食事していた一人の若い町人が次のように語る。これは奥州外ヶ浜の松であろうという。雁は蝦夷地に生息しているが、冬になると津軽半島に飛来する。津軽の海を越えるとき、小枝を一本口にくわえ、翼が疲れると枝を海に落としそこに掴まって休息する。休息が終わるとまだ枝をくわえ飛んでいく。津軽半島の外ヶ浜までくると、小枝を浜辺に捨てていく。春になるとまた蝦夷地へ帰っていくが、その時に、一旦捨てた小枝をまたくわえていく。雁が飛び立ったあと、主のない小枝が山のように残る。これは、東北にいる間に命を落とした雁のものである。外ヶ浜ではこの小枝を集めて湯を沸かし、風呂に入ると妊婦は安産すると伝えられている。これを雁風呂(がんぶろ)、または雁供養(がんくよう)と呼ばれている。この衝立の松はこのような故事から描かれたものであろう。
 話を聞いて光圀公は感心する。この絵を描いたのは何者かと問うと、「土佐光起かと存じます」と答える。名を聞くと、町人は北浜の淀屋辰五郎であると答える。今度は辰五郎が尋ねると「西山の隠居」であると答える。光圀公であるか、驚いて土間におり平伏する辰五郎。
 辰五郎は涙を流しながら、財産を没収され家を改易になった次第を話す。光圀公と辰五郎は一緒に江戸へ向かう。没収となった家財の十中八九までが柳沢の懐に入ったと、光圀公は聞く。事実だとすればとんでもないことだ。光圀公は、大名諸侯の留守居役に書面をつかわす。淀屋が貸し付けた金子のうち100分の1はお下げ渡すよう命じる。このおかげで辰五郎は細々ながら店を再興することができた。

【(13)藤井紋太夫お手討ち】

 なかなかお子様に恵まれなかった綱吉公。ようやく生まれた徳松君も早逝され、鬱々として仏間に閉じこもっている毎日である。護持院の大僧正、隆光を呼び寄せて、涙ながらに訴える。隆光は、前世において畜類を苦しめたのが原因であるといい、畜類、とりわけ綱吉は犬の年の生まれなので犬を大切にすれば、またお子様も生まれ、徳川家も末代まで栄えるという。隆光のいう事ならなんでも聞き入れる綱吉公と母親の桂昌院。こうして「生類憐みの令」という悪法が発布される。動物を大切にせよ、とくに犬については叩けば島流し、殺せば死罪という重刑が課せられる。以来、処罰されるものが続出する。
 常陸の西山に隠居されていた光圀公は、この「生類憐みの令」について聞かされ怒り心頭である。無用な殺生を禁ずるというならともかく、これでは人間より鳥獣を上に見ていることになる。わが領内では、鳥獣を殺すことは勝手なりという御触れを出す。
 これから領内の野良犬を30匹あまり捕獲する。その皮を剥いで生製して立派な桐の箱に入れる。そして江戸表の柳沢吉保に送り、吉保から綱吉公に献上する。これを運んだのが、水戸家の藤井紋太夫である。箱の中を見た綱吉公は驚いた。犬の皮をなめしたものである。「早々に取り捨てろ」綱吉は叫ぶ。柳沢も驚き、ただただ平伏する。
 柳沢は箱を運んできた藤井紋太夫を呼び寄せた。紋太夫は、光圀公は学問に熱中しすぎて近頃奇妙な振る舞いをすると言う。紋太夫は柳沢の権勢を借りて、水戸家の政治を牛耳りたいという野心があった。これをきっかけに紋太夫は柳沢に通じるようになる。ここでとんでもない陰謀をたくらむようになる。水戸家の当主、徳川綱條(つなえだ)卿のお子様、菊千代君が身体が弱い。この菊千代君を排除して、柳沢の次男に水戸家を相続させようと謀る。しかしこのためには光圀公が邪魔である。そこで藤井紋太夫は、「光圀公は狂気乱心したようである」と柳沢に告げる。柳沢は大名諸侯に吹聴して回る。
 いつかこのことが光圀公の耳に入る。調べると藤井紋太夫が柳沢と通じていることが分かる。さらに柳沢の息子に水戸家を継がせようとしていることも分かる。
 光圀公は久しぶりに江戸にご出府し、小石川の上屋敷で能の催しを開く。藤井紋太夫も妻子を連れて見物する。光圀公は家来の者に命じて、この間に紋太夫の家の家宅捜索をさせる。すると柳沢と交わした密書が次々と出てくる。
 能の番組が始まる。仲入り後、光圀公は『羽衣』を舞う。終わって楽屋に入って装束を整える。光圀公は楽屋に藤井紋太夫を呼びつける。光圀は、柳沢との密書を証拠に見せ、小姓のころから寵愛してきた紋太夫を背中から胸にかけて一刀を振り下ろす。再び舞台に出た光圀は『海人(あま)』を舞うが、人を斬った後だと気づくものは誰もいない。

【(14)河村瑞軒(かわむらずいけん)】

 大坂の与八郎という者は早くに両親を亡くし、それならば江戸へ行って一旗あげようと東海道を東へと下る。しかし品川宿で路用の金を残らず巾着切りに盗まれてしまう。
 高輪から八ツ山下をトボトボ歩いていると、荷車を引いた22〜23歳の威勢の良い男に呼び止められる。大木戸を通るのに荷車を後から押す人足が必要なので、後ろから歩いて付いてきて欲しいと言う。荷車を引いていた男は清吉といい、与八郎が困っていることを聞くと、車屋の親方は面倒見のいい人だから、この親方の世話になったらどうかと持ち掛ける。
 田町九丁目の三河屋という車屋へ帰り、清吉の頼みで与八郎はここで世話を受けることになる。
 お盆になり、ご先祖様をお迎えするためにどこの家でも飾り付けをする。与八郎はお盆を終えたらこの飾りは捨てられてしまうと車屋の親方から聞く。与八郎は親方の女房から紋付、羽織・袴を借り、清吉に荷車の用意をさせる。荷車を清吉に引かせて町内の家を方々巡り、患っている父親・母親を治すために精霊(しょうろう)を収集していると言って、真菰(まこも)を山のように集める。
 お供えしていたご飯を蒸して、石臼で搗くとお餅のようなものが出来上がる。これに蜜をつけると得体の知れない甘いものが出来る。これを箱に詰める。清吉がこれを食べてみると、甘いところと酸っぱいところがあってなかなか美味い。これを「酢甘(すあま)」と名付けて売ると飛ぶように売れる。今度また与八郎は、やはりお盆飾りのお牛やお馬を細かく刻んで甘味噌に漬けたものを作る。これを「やたら漬け」と名付けて清吉は売りに行くが、これも見事に売り切れる。
 小銭が山のように溜まって、これを車屋の親方と清吉に分けて渡し、自分はわずかばかりの金を持って姿を消した。この後、麹町に今でいうところの商業学の塾を創る。大坂に戻って時の勘定奉行に取り立てられ、士分になる。この時名を河村瑞賢と改めた。淀川の支流、安治川を開削して川が氾濫するのを防ぎ、この時の土砂を集めた山は瑞賢山と呼ばれた。

【(15)徂徠豆腐】

 荻生徂徠(おぎゅうそらい)が学者としてまだ世に出る前で、惣右衛門という名だったころの話。芝・日陰町に住み、ひどい貧乏暮らしである。年の瀬、たまっていた勘定を払うと一文なしである。正月からなにも食べる物がない。「とーふ、とーふ」、表を豆腐売りが通りかかると冷奴を2丁買い求める。豆腐売りは上総屋吉兵衛という。代金は16文だが、細かい金がないからと支払いは次回にしてもらう。翌日の朝、吉兵衛からまた冷奴2丁を買い求める。今日も細かい金がないからと支払いは先延ばしにしてしまう。この繰り返しで5日目、今日吉兵衛は釣銭を準備してきたという。ここで惣右衛門は「細かい金がないくらいなら大きい金もない」という。毎日豆腐ばかり食べて過ごしていると打ち明ける。払うあてがないので毎日2丁だけ頼んでいるといい吉兵衛は気に入った。これから毎日「餌」を持ってくるという。
 それから吉兵衛は、おからに醤油で味付けて持っていくが、女房はどうせなら「おむすび」を持って行ってあげればという。「かたじけない」と言って惣右衛門は食べ、おかげで勉学が出来るようになる。
 これから毎日おむすびをもっていくが、ある日、吉兵衛が風邪をひき持っていくことが出来ない。6日目にやっと訪れると惣右衛門はいない。近所の人に聞くと2〜3日前ふらりとどこかへ行ってしまったということである。
 年末のある日のこと、貰い火で上総屋の店が火事になり全焼する。何もかも失った吉兵衛夫婦は互いに慰め合う。友達の家に身を寄せる。そこへひとりの大工が訪ねてやって来る。彼は「2月には普請が出来る」といい、「さる方から」と言って当座の分だとして十両の金を与える。何のことだか吉兵衛はさっぱり分からない。
 2月6日のこと。吉兵衛夫婦がやって来ると焼け跡に立派な店が出来ている。「さる方」がやってきた。かつての「冷ややっこの先生」、荻生惣右衛門であり、柳沢吉保のお取立てにより、八百石取りの身分に出世できたという。惣右衛門は吉兵衛の今までの親切の礼として、この豆腐屋の店を普請したという。
 吉兵衛の豆腐屋は増上寺の御用達となり、人々からは「徂徠豆腐」と呼ばれたという。

【(16)葛の一壺】

 宝永4年11月、富士山が大噴火をする。関東一円は大変な被害である。宝永5年3月には京都で大火災、同じ年の5月、今度は京都で大洪水が起こる。日本中が大恐慌になり、5代将軍・綱吉公は困り果てる。毎日大奥に籠って鬱々としている。こうなると綱吉公の寵愛を受けて権勢をふるってきた柳沢吉保も気が気でない。そこで6代将軍を継ぐことが決まっている綱豊卿に取り入って、綱吉公が亡くなった後も自分の地位を守ろうと思う。綱豊卿のいる西の丸に参上し、ご機嫌伺いをする。綱豊卿のお側御用役を務めるのは、間部(まなべ)越前守。越前守は柳沢のことが良く分かっているので、なるべく綱豊卿に会わせないようにする。ますます心配の募る柳沢は、今度は越前守に進物を送るようになる。
 ある日、越前守は訪ねて来た柳沢に「そこもとの国許で出来た『葛』を一壺所望したい」という。これを受けた柳沢。柳沢は考える。自分の領地は武州・川越で葛など名産物ではない、どういうことだ。
 屋敷に帰った柳沢が家臣に尋ねると、渡辺九左衛門の顔色がさっと変わる。かつてこんなことがあった。備前岡山の大大名、池田綱政(つなまさ)は官位が欲しいが、それには柳沢に話を通さなければならない。そこで柳沢に莫大な進物を送る。綱政の家臣が柳沢の屋敷を訪れたところ、柳沢は『葛一壺』を所望するという。『葛一壺』とはなにか。家臣一同が考えるが、これは『紹鴎(しょうおう)の茶入れ』のことである。紹鴎から織田信長、豊臣秀吉と伝わった金には代えがたき品である。毎年、虫干しをし、箱にしまう時には破損しないよう葛を一緒に詰める。『葛一壺』とはこの掛け言葉だったのだ。柳沢には逆らえない。結局、紹鴎の茶入れは柳沢に送られた。これに満足する柳沢。
 そんな話をすっかり忘れていた柳沢だが、渡辺九左衛門に告げられて思い出した。一旦「譲る」と言ったので、仕方なく紹鴎の茶入れを間部越前守に渡す。越前守はこれを綱豊卿に献上する。綱豊卿もご満悦である。
 綱吉公の身体の具合が次第に悪くなっていく。熱を出し床に臥し、治ってはまた床に臥す、これを繰り返す。宝永6年1月11日、今日は具足開きの日である。心持の良かった綱吉公は御酒を召し上がり、かなり酩酊する。『船弁慶』を舞うが、足元がふらつき、パッタリと倒れる。この時、燭台が倒れ、狩野探幽の描いた犬の絵の衝立に燃え移った。犬の絵が半分燃えているのを見て、綱吉は震え上がり、酒宴は中止になった。この日の真夜中、綱吉公はにわかに発熱し、お付きの者は必死に介抱するが、この夜亡くなる。64歳であった。
 西の丸の綱豊卿は6代将軍となり、徳川家宣(いえのぶ)となる。同時に柳沢はお役御免を願い出でる。神田橋の上屋敷は取り上げられて、下屋敷、今の六義園に隠居する。その5年後、57歳でこの世を去ったのである。





参考口演:神田松鯉、神田阿久鯉、六代目神田伯龍

講談るうむ(http://koudanfan.web.fc2.com/index.html
inserted by FC2 system