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講談連続物『慶安太平記』あらすじ

(けいあんたいへいき)


 江戸時代初期の1651(慶安4)年に起こった『慶安の変』(由井正雪の乱)を題材とした読物。由井正雪が丸橋忠弥などの門人と共に、徳川幕府に対して反旗を翻す。3分の2ほどは、正雪が同志をいかにして集めたかという話である。

【第1席】正雪の生い立ち

 駿州由比の宿に治右衛門という紺屋を営む者がいた。女房は「おなか」というが、2人の間には子供がなかった。富士浅間にお参りをすると、ご利益があったのか男の子が産まれ、藤松と名付けられる。寺の和尚に聞いたところこの子の目は「双瞳」である、将来天下を動かすような大人物になると言う。藤松はすくすく育つ。学問や武芸にも優れている。
 20歳の時、名を由井民部之助正雪と改め、武芸修行の旅に出て諸国を回る。紀州の和歌の浦で、藩主の徳川頼宜(よりのぶ)公の大名行列に遭遇し、ここで頼宜公から知遇を得る。多能多芸の正雪はたちまち頼宜公のお気に入りになり、500石で召し抱えられる。
 しかし人相見の得意な付家老、安藤帯刀弾正直次(あんどうたてわきだんじょうなおつぐ)に「この者は世を乱す悪相をしている」と告げられる。頼宜といえど安藤帯刀に言葉に逆らう訳にはいかない。莫大な手当てを与えられた正雪は和歌山を離れるのであった。

【第2席】楠木不伝闇討ち

 江戸表へと到着した正雪。市中を見物していると市ヶ谷堀端で、かつて由比の宿で文武の世話になった楠不伝(くすのきふでん)先生と出会う。不伝先生は市ヶ谷八幡宮で道場を開いでいる。
 不伝先生の道場で、正雪は師範代となって門弟たちに武術と軍学を教える。先生は正雪を妻の連れ子である「しげ」と夫婦にして道場の跡取りにしたいと考える。しかし正雪は一介の道場の主になるつもりは無かった。
 道場の門弟のなかの村上新五はしげと男女の仲になる。不伝先生は二人の関係を知って怒り、村上を破門にする。しげは先生の友人である神楽坂の坪井の家に預けられることになった。
 正雪は村上に、実は不伝先生は「しげ」ををおもちゃにし、毎晩のように坪井の家へ出向いては淫らなことをしているとデタラメな話を吹き込む。
 すっかり信じた村上は、坪井の家で囲碁をした帰りの不伝先生を待ち伏せし、襲って殺害する。そこへ正雪が駆け付け、村上を斬り殺す。破門になったことを逆恨みした村上が不伝先生を闇討ちにした、そこで正雪が村上を仇討ちにした、ということで決着はついた。
 正雪が不伝先生の跡を継ぐと門弟が次々と集まり、牛込榎町に立派な道場を新たに開く。これを「張孔堂(ちょうこうどう)」と名付け、江戸市中で評判になる。

【第3席】丸橋忠弥登場

 由井正雪が牛込榎町に開いた張孔堂という道場が江戸中の評判になり、多くの入門者が詰めかけ賑わう。本郷御茶ノ水には宝蔵院流の槍術の名人、丸橋忠弥(まるばしちゅうや)の道場がある。忠弥は生まれながらに短気な男で、最近評判になっている張孔堂が気に入らない。この道場に乗り込んで他流試合を申し込むと言う。忠弥には加藤、柴田という友人がいたが、2人が制止するのも聞こうとしない。中橋槙町に狩野藤五郎守信という絵師がおり、正雪とは昵懇の仲である。ここで立ち合おうと忠弥は考えた。
 翌日、忠弥は槙町の藤五郎宅を訪れ、二十四孝の絵を描いて欲しいと依頼する。その翌日、忠弥は「頼もう」と声を掛けて藤五郎の宅を訪れる。昨日注文した絵は出来たかと尋ねる。出来ていないと答えると「それではまた参る」といって帰っていく。翌日も、その翌日も刻限たがわず忠弥は訪れ「絵は出来たか」と聞きにくる。そのうちに稽古用の槍を持ってくるようになった。
 ある時、その日も忠弥が訪れると、門の内に菊水の紋の付いた一挺の駕籠が止めてある。「奴め、とうとう来たな」、ニンマリ笑う。「今日は絵の催促ではないわ」、藤五郎と正雪のいる座敷へズカズカと入り込む。由井正雪の顔を見るなりすぐに他流試合をしたいと申し込むが、正雪はここは絵師の家であるので迷惑をかける、牛込榎町の道場まで同道願えないかと言う。忠弥もこれを承け、2人は張孔堂で試合をすることになる。

【第4席】忠弥・正雪の立ち合い

 正雪に他流試合を申し込み、道場へと上がり込んだ丸橋忠弥。正雪と試合をする前に、忠弥は門弟3人と立ち合うことになった。あっという間に彼らを打ち負かす。続いて正雪との勝負である。正雪の構えを見て、忠弥は驚いた。これは自分より数段勝る。二人が槍を絡み合わせ、一進一退が続く。正雪は槍を落す。すると正雪は脇に手挟んでいた扇子を前面に差し出した。そこに一寸の隙もない。忠弥は唸り声をあげ、後ずさりをする。正雪と忠弥と同時に「参りました」と言う。忠弥は当初は正雪のことを「山師」だと思っていたがとんでもない。武芸者の鑑のような方である。すっかり感服してしまい、「格別たるご昵懇を」と言う。
 正雪は忠弥をもてなし、彼に「この道場で槍術の指南をしてもらいたい」と頼む。忠弥はお茶の水の道場と張孔堂とで一日おきに槍の指導をする。評判の先生から習えるということで入門者は次から次へと詰め掛ける。丸橋忠弥とは義兄弟の盃を交わしている柴田三郎兵衛と加藤市郎右衛門は、正雪に心服する忠弥のことを苦々しく思う。しかしこの二人もやがて正雪に丸め込まれてしまう。

【第5席】秦式部

 関東一円では5〜6月大干ばつに襲われる。百姓たちは雨ごいをするが一滴の雨も降らない。由井正雪は門弟数人を引き連れ、浅草寺へとお参りに行く。奥山には下帯一丁の姿で大きく筋骨たくましい大道芸者の男がいる。竹棹を継ぎ足し、その上に水を注いだ大皿を載せクルクルまわすと、霧水が八方四方に散り七色の虹が輝き客の上に水が降りかかる。見物客はヤンヤヤンヤの大喝采で、銭を放り投げて帰る。正雪はこの皿回し先生に牛込榎町の張孔堂という道場まで来て欲しいと乞う。皿回し先生は同道する。
 正雪の屋敷に招かれた皿回し先生は、由井正雪とともに酒を飲む。天候についての話になると、皿回し先生は今月は決して雨は降らない、来月の19、20、21日の間に必ず大雨が降ると言う。この皿回し先生は秦式部(はたしきぶ)という者であった。彼の父親は秦盛親で四国の鬼と呼ばれ恐れられていた武将だ。正雪はぜひこの道場へ来て下さいと請い、秦式部は天文と軍学の講義を引き受けることになる。
 秦式部は正雪が、天下を覆すような大事を企てているとの胸中を察している。世間の信頼を得るために、この干ばつを利用したらどうかと勧める。
 正雪は大きな舟を借り、品川沖に舟を浮かべる。必ず雨が降るという話が広がり、高輪から品川まで多くの見物客で人だかりになる。正雪は舟の上で天に向かって一心不乱に祈祷をする。19日、20日と雨は降らないが、21日の日が傾きかけた頃、稲妻が光り雷鳴がとどろき雨が降り出し、間もなく雨は怒涛の如く振る。見物人は大喜びである。
 雨は3日間降り続いた。これも正雪先生のおかげだと、江戸中で大評判である。正雪は紀州様や御公儀からもたいそうな褒美を頂く。これもすべて秦式部のおかげで、こうしてまた一人、有能な味方を引き入れたのであった。 

【第6席】戸村丹三郎

 品川の宿場女郎屋の前を、23〜24歳くらいの旅姿、浪人体の武家が通りかかる。「遊ぶ金がない」と言って断るが、牛太郎のしつこい誘いに乗って店へあがる。男は三日三晩居続けるが、本当に一文も無く勘定が払えない。男は播州・明石の生まれで戸村丹三郎という浪人であった。いろいろ話すうちに主人の定五郎はこの戸村がすっかり気に入ってしまった。兄弟分の人入れ元締めに戸村の奉公先を探してもらうことにする。
 戸村は木挽町の柳生但馬守に中間奉公をすることになり、伝助と名を変える。クルクルとよく働き、毎日のように庭掃除をしている最中、表から道場の稽古の様子をのぞく。
 ある日、柳生但馬守がお忍びで駕籠に乗って浅草の浅草寺を参拝し、伝助もお付きで同道する。帰り道、酔っぱらった3人の侍と鉢合わせになり、伝助は3人の酔漢を次々と投げ飛ばす。
 屋敷に戻って但馬守から呼びつけられた伝助。褒められると思いきや、暇を告げられるる。但馬守は酔っ払いごときを相手にしないと言う。怒る伝助に但馬守は自分を討てるものなら討ってみろという。伝助は木刀をもって但馬守を襲うが、たちまち反撃される。とても敵うような相手ではなかった。悔しさでいっぱいの伝助は、這う這うの体で柳生の屋敷から逃げ出す。。
 これから縁あって、牛込榎町張孔堂で道場を開く由井正雪の門下に入る。戸次与左衛門と名を変え、正雪の企てに加わることになる。

【第7席】宇都谷峠

 江戸・芝の増上寺に伝達(でんたつ)という僧侶がいた。年は32〜33歳の大男である。ある日境内に僧侶が集められ、誰かに大本山である京の知恩院に2000両の金を届けてもらいたい、10日間で帰ってこなければならないと言う。誰も手を挙げないが、伝達だけが引き受けると言う。さっそく旅支度にとりかかる。
 翌日の七つ、現在の朝4時頃にまだ暗いうちに伝達は出立する。品川宿まで来ると、商人体の男がしつこく付きまとう。生麦まで来ると、その男が話しかけてくる。彼の名は甚兵衛といい、二人は同道することになる。
 箱根の山中に入りこの先は関所であるが、甚兵衛は往来手形を持ってないと言う。そこで伝達の往来手形に「供一名」と付け加えて欲しいと言う。商人の姿であった甚兵衛が木の陰に入り、あっという間に紺のハッピ姿に着替える。これならばどう見ても僧侶のお供である。二人は無事関所を通過することが出来た。
 駿府(今の静岡市)で一泊し、二人は宇都谷(うつのや)峠に差し掛かる。甚兵衛は伝達に傍らの辻堂に潜んでいてくださいと言う。甚兵衛は向こうからやってきた紀州様のお金飛脚を襲い、三千両という金を強奪する。甚兵衛の正体を知って伝達は震え驚く。
 二人は三州・吉田宿の旅籠に泊まるが、宿の主人から、お金飛脚が強盗に襲われ、吉田宿にも厳重な関所が立てられている、お改めが済むまで誰一人通してはならないとのお達しが出ていると聞かされる。甚兵衛は宿を出てしばらくして戻っていた。36ヶ所「伏せ火」を仕組んできたと言うのだ。二時経って、吉田宿のあちこちでバーンという爆発が起こり、火の手が上がる。町は炎に包まれ大騒ぎである。この騒ぎに乗じて二人は吉田宿を脱出する。甚兵衛は伝達に200両の金を渡し、二人は別れる。

【第8席】箱根の惨劇

 伝達は2000両の金を京の総本山・知恩院に無事納め、江戸への帰途につく。三島で茶屋に入り、僧侶なのに酒を飲み生臭物をバクバク食べる。この様子を由井正雪と門弟の宇野九郎右衛門は驚きながら見る。ここにまた商人の身装をした3人の男がいる。男たちは伝達に親し気に話し掛ける。
 すっかり酔った伝達は茶屋を出立する。正雪と宇野九郎右衛門も追うが、足の速い伝達に2人は追いつけない。伝達が腰かけ一休みしていると先ほどの商人体の3人の男が現れる。「俺たちはゴマの灰だ。金を出せ」、怪力の持ち主である伝達は3人の男をあっという間にやっつけ、彼らの懐を探り38両2分という金を奪う。さらに3人の死骸を崖の上から蹴飛ばして谷に突き落とす。この様子を隠れてみていたのが、正雪と宇野九郎右衛門である。
 その夜、伝達は大磯の旅籠に泊まるが、そこに正雪と宇野九郎右衛門が現れる。正雪は箱根の山中で目撃した出来事を話すと、伝達は僧侶でありながら殺生をして金を盗んだ事を認める。正雪は、伝達が還俗すれば存分に活躍できる、もしその気があったら我が道場に来てもらいたいと勧める。
 江戸に戻り、伝達は張孔堂を訪ね、正雪の幕府転覆の企てを知らされる。伝達は正雪の門下に加わり、還俗して名を吉田初右衛門と変える。

【第9席】佐原重兵衛

 三月の半ばのこと。正雪は日の暮れ方に弟子2人を引き連れて飛鳥山へ花見へと出かける。夜桜見物を満喫していると、傍らの薮陰から槍が突き出て正雪を狙う。ヒラリとこれをかわした正雪。曲者は姿を消す。残された槍を見ると白布が巻いてあり「由来竜気士、井蟄混鰍ぜん、正偶風雷変、雪海河昇天」と五言絶句がしたためてある。頭の文字を取ると「由井正雪」になるではないか。相手は自分を由井正雪と知って狙ってきたのか。
 五月半ばのこと。戸松久太夫という、みすぼらしい身なりをした三十代半ばの田舎訛り丸出しの者が張孔堂に入門を志願しに来た。久太夫は奥州山形出身で、無筆で自分の名前も書けないと言う。入門が許れる。
 九月の小春日和の日のこと。正雪は2人の弟子を連れて東叡山に返り花の見物に行く。不忍池の茶屋で休んでいると、弟子のひとりが飛び込んできた。いつもみすぼらしい身なりをしている戸松久太夫が、立派な姿をして歩いており、無筆だと言っているのに和歌をスラスラと短冊に書き桜の木の枝に結びつけたと言う。その短冊を見て驚いた。三月に飛鳥山に残された五言絶句と同じ者が認めたのに違いない。
 翌日、戸松久太夫は正雪に呼びつけられる。白布と短冊を見せられて、久太夫は白状する。実は奥州南部藩の浪人で熊内重兵衛という者である。天下泰平の世、今一度戦乱を起こして一国の主になりたいとの大望を抱き江戸に出てきた。同じ考えを持つ者を探し、飛鳥山では正雪の胆力と武芸の腕をしたという。正雪も感銘し、二人は徳川の世を倒すという大望を語り合う。重兵衛は連判状に血判をし、佐原(さはら)重兵衛と名を変えた。正雪はこうしてまた一人の同士を得た。

【第10席】牧野兵庫(上)

 慶安11年秋のこと、細川越中守公がお書きになり浅草寺に奉納した能書が評判になっている。正雪も弟子2人を連れてこの名筆を見に浅草寺へと出かける。一人のみすぼらしい身なりをした侍の足を踏んづけてしまったが、お互いに自分が悪かったと謙譲しあう。正雪はこの侍が気に入った。侍は牧野弥右衛門といい下総国行徳の材木屋の裏店に住むという。正雪は下総の方を訪れた折には弥右衛門の家を訪ねたいと告げ2人は別れた。
 慶安12年正月のこと、正雪は弟子を連れて国府台まで出かけ、その帰りに行徳の弥右衛門を訪ねる。すると牧野弥右衛門は重い熱病に罹り寝込んでいる。若い頃医学の修行をしたことがある正雪は、弥右衛門の脈をとって診察する。さらに駕籠を手配し、弥右衛門を牛込榎町の張孔堂へと運ぶ。医者に診せ、薬を与え、介抱すると日一日と弥右衛門は回復し、半年もすると全快する。弥右衛門は涙を流して喜び、正雪の厚恩は生涯忘れないという。
 この牧野弥右衛門という男は砲術の心得があり、重さ38貫目の大砲に1貫目の弾を詰め、それを抱えて撃つことが出来るという。紀州大納言頼宣(よりのぶ)公は武芸名人を召しかかることに熱心である。弥右衛門をお召し抱えになれば、頼宣公と接触する機会ができるかもしれないと正雪は考える。江戸にこんな豪傑がいると風聞を流すと、その豪傑の腕を見てみたいと紀州家から声が掛かる。幕府に願い出、品川での大砲の試射が認められた。
 慶安12年8月20日、品川の試射の会場には大勢の見物人が集まる。弥右衛門は巨大な大砲を抱え引き金を引くと、弾は見事に船上の的に命中した。見物人から大歓声が沸き上がる。
 こうして弥右衛門は紀州家に江戸詰め200石で召し抱えられる。頼宣公にもたいそう気に入られ、とんとん拍子に出世し「牧野兵庫」と名を変え、500石を頂くことになる。さらにこの縁を通じ、頼宣公と正雪とが深い繋がりを持つようになる。

【第11席】牧野兵庫(下)

 ある年の夏、紀州の殿様、徳川頼宜(よりのぶ)公は玉津島の淡島明神に参拝しようと思い立つ。淡島明神は海上にあり陸地からは一里ほど離れている。牧野兵庫が長大な舟橋を造り、頼宜公と200人ほどの供は無事に淡島明神に参詣することが出来る。
 参拝を終え、頼宜公はまだ時間があるので狩倉をすると言い、牧野兵庫とともに馬に乗り山中へ分け入る。しばらくして土砂降りになり、二人は雨宿りをする。少し離れたばところに落雷があり、頼宜公は気を失い落馬する。牧野兵庫は気付け薬を与え介抱する。
 頼宜公は命をなげうって助けてくれた牧野兵庫を3500石に加増する。家中で権勢をふるう牧野兵庫に逆らえる者はいない。しかしただ一人、ご近習役である長谷川主膳だけは追従しなかった。頼宜公に御意見をする機会を伺っている。
 秋の末の事、頼宜公は家来たちを従え、紀三井寺に紅葉見物に行く。ここで長谷川主膳は殿様に奉書をお渡しになるが、これを読んだ頼宜公は激怒する。主膳はご近習役をお役御免になった。頼宜公は牧野兵庫に長谷川主膳の処分を任せた。牧野兵庫は作事方に命じて、お殿様の居間の床下に何やら細工をする。
 後日、長谷川主膳は頼宜公の前にまかり出る。傍らには牧野兵庫が控えている。主膳は「この奸臣め!」と叫んで牧野兵庫を斬ろうと近づくが、兵庫の手前の畳が下へ落ち主膳も一緒に落っこちる。落とし穴が仕掛けてあったのだ。牧野兵庫は長谷川主膳を刀で斬りつけ、主膳は絶命する。これから家中で牧野兵庫に逆らう者は完全にいなくなった。
 参勤交代で頼宜公は江戸に出府し、牧野兵庫も同道する。牧野兵庫は師であり命の恩人である牛込榎町の由井正雪の道場、張孔堂を訪ねる。正雪は「近いうちに乱あり」と言って、血判状を差し出す。正雪の門弟75人の名前が書き連ねてあり、牧野兵庫もまた、名前を認め血判を押す。こうして正雪の同士がまた一人増えたのであった。

【第12席】柴田三郎兵衛

 お茶の水に道場を開いている丸橋忠弥は、最近由井正雪の道場、張孔堂(ちょうこうどう)に槍術指南のため入りびたりである。彼と義兄弟の契りを結んでいる、柴田三郎兵衛と加藤市右衛門は、正雪なんてペテン師だと言って忠告するが、一向に忠弥は聞き入れない。
 三ノ輪で軍学を指南している柴田三郎兵衛は、下女から故郷・房州白浜の海産物をどっさり貰い受ける。自分の家だけで食べてしまうのは惜しいと、この海産物を忠弥の家に届ける。するとこの日の昼に加藤の家から柴田に遣い物が届く。富津で取れた海産物だというが、見ると朝、忠弥の家に送った贈り物である。忠弥は加藤にも食べてもらおうと思い三浦の魚だと言って彼の家に贈った、さらに加藤はせっかくのご馳走だと思って柴田の家に贈った。どういう事かと思った三人だが、経緯を知って顔を合わせて大笑いする。
 相変わらず、忠弥は由井正雪に心酔し彼の道場に足繁く通う。正雪は柴田もまた手なずけようと策略を練り忠弥に伝える。
 忠弥は柴田を茶の席に招待する。柴田が床の間を見ると伯夷叔斉(はくいしゅくせい)の掛け軸が掛けてある。忠弥が運ばせた膳はワラビづくしである。これは殷(いん)の紂王(ちゅうおう)を周の武王が討った時、紂王の家来であった伯夷叔斉の兄弟はワラビ一本食べなかったという故事を引いたものである。忠弥がこんなことを考え付くはずはなく、正雪の差し金であろう。柴田は、正雪にあって直接談じてみることにする。。
 翌日、柴田が正雪のいる張孔堂を訪ねる。ここに金井半兵衛正邦(まさくに)という者がおり、自分の父親は最上家に仕えていたと言う。柴田もまた最上家の浪士である。跡目争いで最上家は断絶となったが、徳川の仕打ちはあまりに酷い、お家の再興を半兵衛は訴える。柴田にも前からそのような思いがあり、心動かされた柴田は、正雪の元に加わることになる。実は、金井半兵衛は小田原北条家の浪人であった。最上家の浪人と偽って柴田を騙したのである。柴田は正雪の連判状に血判し、慶安の謀反の折りには軍師相談役となって働く。

【第13席】加藤市右衛門

 丸橋忠弥は由井正雪にすっかり丸め込まれてしまったが、この忠弥を心配しているのが、義兄弟の契りを結んでいる柴田三郎兵衛と加藤市右衛門である。市右衛門は肥後熊本の城主、加藤肥後守忠広(ただひろ)公の浪人である。忠広公は暗愚な殿様だとして54万石を取り潰されてしまったが、決して愚か者ではなく、些細な口実をつけて煙ったい外様大名を潰してしまおうとの徳川幕府の策略であった。市右衛門は麹町の番町に新陰流の道場を開き質素な暮らしをしている。
 ある日、市右衛門宅の門の前で一人の女性が急病で苦しんでいる。道場の座敷に入れ介抱すると次第に具合は良くなる。この女性は日本橋の松田屋弥五右衛門という材木屋の女房であった。3日後、道場を弥五右衛門がお礼に訪れてきた。これが縁で二人はと親密な仲になる。
 ある時、市右衛門は松田屋の店を訪れた。弥五右衛門は酒・肴・ご馳走で彼をもてなす。弥五右衛門は、弟の弥七に武術を教えてくれないかと乞い、市右衛門は聞き入れた。市右衛門は、日本橋の松田屋まで通い剣術を教える。稽古が終わると酒・肴をふるまわれる。
 ある日、弥五右衛門は実は自分は松山藩、加藤左馬助嘉明(さまのすけよしあき)の浪士であることを打ち明ける。熊本の加藤家、松山の加藤家、ともに関ヶ原の合戦で目覚ましい活躍をあげた。それなのに些細な禁制を犯したとの口実でお家は取り潰される。弥五右衛門は今でも加藤家再興のために力を尽くすつもりだと言う。そこで弥五右衛門は由井正雪が徳川幕府転覆の企てをしていることを語り、市右衛門を牛込榎町の張孔堂(ちょうこうどう)へ案内をする。市右衛門はすぐに正雪の虜(とりこ)になった。この後、市右衛門は「慶安の謀反」にて京都方の総大将になる。

【第14席】鉄誠道人

 由井正雪(ゆいしょうせつ)は幕府転覆を謀るが、それには数十万両という大金が必要である。そこで一案を思いつく。
、鉄誠道人(てっせいどうじん)という乞食坊主は生まれつき、髪の毛から足の先まで体じゅう真っ白な男である。正雪はこいつを利用しようと考えつき、彼を呼ぶ。人をたらし込むことに長けた正雪は、鉄誠道人をたちまち丸め込んでしまう。。
 ある日のこと、正雪は鉄誠道人に数十万両の大金を稼いでみないかと計略を伝える。鉄誠道人が信者を集め、皆の罪障を消滅させるためだと告げて、棺の中に入り群衆の目前で焼け死んで欲しいと言うのだ。大勢の者が集まるが、寄進をすれば大きな功徳になると喧伝し大金を集める。棺の中にはあらかじめ煙を防ぐ秘薬を用意しておき、さらに底には抜け穴があるので、死なずに逃げられる。また棺の中には囚人の骨を置いておく。こうすれば誰しも鉄誠道人が焼け死んだものと思うであろう。聞いた鉄誠道人はこれは面白いと喜んで引き受ける。
 当日になり江戸市中、さらに遠方からも大勢の人が詰めかける。数十両、百両という寄進が引きも切らない。これで自分たちの罪は消える、群衆は歓喜の声をあげる。「馬鹿な奴らだ」とほくそ笑みながら、鉄誠道人は棺の中に入る。周りの薪木に火がつけられとブワッと燃え上がる。
 棺の中の鉄誠道人は正雪が用意した秘薬を飲むが、これは実はしびれ薬で、意識が朦朧(もうろう)となる。棺の底には抜け穴など無い。鉄誠道人はやっと気づいた。俺は騙されたんだ、棺から脱出しようにも錠前が掛けられてる。叫ぼうにも群衆の声にかき消されてしまう。七転八倒の末、鉄誠道人は息絶えた。
 火は収まりシーンと静まる。正雪が鉄誠道人の骨を拾いあげると、これを見た群衆はまたも熱狂の声をあげる。こうして軍資金も集まり、いよいよ幕府転覆の計画が実行されるという話になる。

【第15席】旗揚げ前夜

 倒幕を企む由井正雪が、大公儀のなかで一番手ごわいと考えているのが、老中筆頭の松平伊豆守信綱(のぶつな)である。なんとか彼を始末しようと考える。明日の晩、伊達陸奥守の屋敷で月見の宴が催され、伊豆守も訪れる。伊豆守を討ち取る絶好の機会だ。
 当日、正雪は二人の門弟とともに伊達家の庭へと忍び込む。屋敷の様子を窺うと、一人の老人が縁側に立ち、中秋の名月に見入っている。彼が伊豆守か、正雪は鉄砲を一発撃ち込むと、弾は老人の耳を掠める。「曲者!」と一喝し、正雪ら三人は牛込榎町の道場へ慌てて逃げ帰る。伊豆守は風邪気味で宴の席にはいなかった。正雪が撃った相手は風貌が良く似た柳生飛騨守であった。飛騨守は伊豆守に、曲者はあなた様を狙ったのではと話す。伊豆守の周りの警護は厳重になる。
 慶安4年4月20日、三代将軍家光公がご薨去になる。この報はすぐには発表されず、7月20日に「ご他界の御触れ」を出すことになった。正雪もこの情報を入手し、ついに時節が到来したと喜ぶ。
 7月になると正雪は張孔堂に大将を集め、20日、将軍ご他界の御触れが出た際に、倒幕の兵を挙げると皆に告げ、布陣を次々に発表する。
 この後は酒宴になるが、丸橋忠弥は一人沈んでいる。布陣の中に自分の名前が無かったのだ。正雪は「実は大役を願いたい」と言う。家光の警固役の石川八右衛門に忠弥がそっくりであり、挙兵した際に江戸城の中に紛れ込み、4代将軍を奪い取る役目を引き受けて欲しいと頼む。確かに大役だと、忠弥は感激のあまり大きな涙を流す。しかしこれは正雪の計略で、どうにも役に立たない忠弥を混乱のなか殺させてしまおうという策であった。

【第16席】丸橋と伊豆守

 丸橋忠弥は徳川に滅ぼされた四国の名家、長曾我部の血をひいている。将軍の命を取ることができればこれは名誉だ。嬉しさのあまり酒をしこたま飲んで張孔堂を後にする。今のうちに江戸城の大手の様子を探ろう。大手門の間近まで来てお堀端をフラフラと歩く。野良犬が忠弥を吠え立てる。忠弥はポーンと石を2度投げつける。水煙が立つ、立たないで堀が深いか浅いかが分かる。駕籠からこの様子を見ていたのが、松平伊豆守信綱、通称「知恵伊豆」である。彼が槍の名人、丸橋忠弥であると知って「ぜひ槍術を見せてほしい」と告げて、伊豆守の駕籠は去る。
 酔いの覚めない忠弥は、帰り道を間違えて本町三丁目へと来てしまう。ここで辻駕籠に乗る。駕籠屋が「町(ちょう)に行きますか」と問うと忠弥は「うん」と答える。「町」とは駕籠屋の符丁で吉原のことである。駕籠は日本橋芳町(よしちょう)、今の人形町界隈に到着した。周りの様子を見て忠弥は驚く。ここは遊郭ではないか、忠弥は怒り、ここまでの代金は払わないと言う。駕籠屋、さらにその仲間と喧嘩になるが、相手は大勢で敵わない。忠弥は逃げ、一里も駆けるともう連中は追って来ない。
 さらに忠弥は酒を飲んでベロンベロンに酔っぱらい、真夜中に御茶ノ水の我が家に戻る。紋付が破れているのを見て母親が尋ねると、忠弥は駕籠屋との一件を話す。「駕籠賃を得した」と語ると、母親は名家、長曾我部の血をひくあなた様がそのような卑しい心持でどうすると激高する。
 がっかりした忠弥は、妻に正雪が倒幕を企てており、自分もそれに参加すると語る。軍学に通じている妻は、後醍醐天皇が倒幕を企てた折、側近の左近蔵人(さこんくらんど)が妻子にこの謀(はかりごと)を打ち明け、幕府側に事が露見し、ついには天皇は隠岐の島へと流罪になった故事を話す。左近蔵人は嘲笑の的になった、あなた様が私に打ち明けたのはちょうどこれと同じ事ですと、さんざんに苦言を呈するのであった。

【第17席】奥村八郎右衛門の裏切り

 旗揚げの前日の慶安4年7月19日、牛込榎町の張孔堂には江戸で挙兵する者たちが集まり最後の謀議をする。軍師の柴田三郎兵衛は「大事は小事から崩れるので十分注意するように」と一同を戒める。これから酒宴が始まる。丸橋忠弥と、副将の奥村八郎右衛門は碁の勝負をするが、「待ってくれ」「待てない」で諍(いさか)いになる。酔った忠弥は碁石を投げつけ、それが奥村の眉間に当たり血が流れる。両者刀を抜くが、周りの者が引き止め、奥村が勘弁したということで、なんとかこの場は収まる。
 奥村八郎右衛門は張孔堂を出、本郷御弓町の父親の元を訪ねる。父親が八郎右衛門の顔を見ると眉間に傷が付いている。八郎右衛門はいきさつを話す。父親は武士が面体を傷付けられたとは何事かと激高し、これから忠弥の道場に乗り込むと言う。八郎右衛門は「大事の前の小事であるから勘弁しました」と口を滑らせてしまった。「大事とはなにか」、父親と長兄の藤四郎を問い質す。八郎右衛門はついに「幕府転覆という陰謀を謀っている」と白状する。
 驚いた父親と兄は八郎右衛門を縛る。父親は松平伊豆守の屋敷を急いで訪ね「天下の一大事でございます」と報告する。副将軍の水戸中納言頼房(よりふさ)公にも伝えられ、江戸にいる大名には急登城が申し付けられる。

【第18席】正雪の最期

 奥村八郎右衛門と丸橋忠弥の間の些細な諍(いさか)いから、幕府転覆の謀略は御公儀に露見する。旗揚げの前日の19日、丸橋忠弥は召し捕られ、総大将の佐原重兵衛、軍師・元帥の役の柴田三郎兵衛は姿を消してしまう。
 そんな江戸のことは露とも知らない由井正雪ら13人は、駿府、現在の静岡に乗り込み、脇本陣である梅屋勘兵衛の宿に泊まる。一行はその間に駿府の町を下見する。
 7月21日、朝食の汁碗から湯気が立っていない、これは大事が露見したと正雪は言う。すると町の様子を探っていた僧侶の廓然(かくぜん)が部屋へ駆け込んで来て、早駕籠が駿府城のなかへと入り、すぐさま藩の重臣が次々と大慌てで登城した、これは我々の謀(はかりごと)が露見したに違いないと報告する。
 正雪は宿の主、梅屋勘兵衛を呼び、「この宿に迷惑をかけることになるかも知れない」と言って1500両の金を彼に渡す。不審に思った梅屋勘兵衛はすぐさま町奉行の役宅へと伝える。奉行は、それは由井正雪ら謀反人で、駿府の町に火を放ち、城を乗っ取ろうとしているだと確信する。宿に戻った梅屋勘兵衛は客たちを立ち退かせる。正雪には勘兵衛が奉行に自分たちのことを伝えたのだと分かる。
 町奉行与力が正雪らのいる部屋の前に来て出頭を促す。一同は別れの盃を交わし、正雪は床の間の壁に辞世の句を書き付ける。廓然の介錯では正雪は切腹を果たす。他の者も次々と切腹を遂げ12名の死骸が並ぶ。捕り手が部屋に乱入し、廓然は血だらけになって斬りまくるが途中で刀が折れ、正雪の刀を取り上げて自らの腹に突き刺す。こうして13人、見事にあい果てた。

【第19席】一味の最期

 すでに幕府転覆の謀略は露見しており、駿府では由井正雪ら13人が自刃。江戸では総大将の佐原重兵衛、軍師・元帥の役の柴田三郎兵衛がどこかに消える。それを知らない京都の加藤市右衛門に熊谷三郎兵衛。7月25日のこと、両名は清水の観世音を参詣すると、大勢の捕り方に囲まれる。二人は捕まり、江戸へと送られるが、熊谷は途中箱根の山中で舌を噛み切って死ぬ。
 大坂の大将は金井半兵衛、吉田初右衛門の二人である。吉田は元は増上寺の僧侶で名を伝達と言った。同じ日、二人は宿を出て天王寺へやってくると、捕り手に取り囲まれる、「さては大事露見か」。金井は逃げるが、吉田だけがお召し捕りになる。翌年の2月、天王寺の五重塔の傍らで一人の浪人が腹を斬って死ぬ。ご検死役が調べるとこれが面体の皮を剥ぎ取った金井半兵衛であった。
 上方で召し捕られた者たちは江戸へと送られ、松平伊豆守がお取り調べになる。
 まず加藤市右衛門。正雪に加担した事は素直に認めるが、他の協力者の名は厳しい拷問を受けても、口を割らない。
 次に吉田初右衛門である。初太郎という彼の倅が水責めの拷問を受け苦痛の声をあげるが、吉田はそれでも口を開かず、取り調べは中止になる。
 次に丸橋忠弥である。忠弥の前には年老いた母親が呼ばれる。忠弥は涙を流して白状しようとするが、母親は「情けない、同士の名を語るようならもはや母でも子でもない」とたしなめる始末。やはり忠弥も口を割らない。
 数日経ち、姿を消していた江戸表の総大将、佐原重兵衛が伊豆守の屋敷の前に現れた。加担した者の中に島津、細川ら大大名が含まれたなら、かえって世を乱すことになると伊豆守に迫る。伊豆守はこれ以上の追及を止める。
 12月9日、謀略に加担した者全員が処刑される。磔になる者73人、獄門にあがった者317人。すると逃亡していた柴田三郎兵衛が現れ、丸橋忠弥に面会したいという。「面目次第もありません」と忠弥は泣いて謝罪する。柴田は小刀で自害する。丸橋忠弥に槍28本が突かれ、息絶える。すべての処刑が終わったのは、薄暮のころだったという。【終わり】




参考口演:神田阿久鯉、神田伯山、神田松麻呂

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