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『赤穂義士外伝〜萱野三平重実』あらすじ

(あこうぎしがいでん〜かやのさんぺいしげざね)



【解説】
 萱野重実(かやのしげざね:1675〜1702)は赤穂藩浅野氏の家臣。通称三平(さんぺい)。主君の浅野内匠頭が吉良上野介に対し刃傷に及び切腹に処せられた事件を、いち早く早水藤左衛門とともに早駕籠で赤穂へと伝える。浅野家はお取り潰しになり赤穂浪士は吉良への仇討ちを決意する。萱野三平も加わろうとするが、故郷の父親は村に戻って庄屋の娘の婿になれと言い付ける。主君への「忠」を取るべきか、親への「孝」を取るべきか、板挟みになった三平は悩む…。「四十八番目の赤穂浪士」とも言われ、ならば「銘々伝」に含めるべきなのかも知れない。また泉岳寺の赤穂義士墓地には、萱野三平重実の供養碑が建てられている。
 萱野三平は歌舞伎の「早野勘平」のモデルになるが、こちらではなぜか腰元のお軽と逢瀬を重ね、殿様の一大事の際に駆け付けられなかったという、全くオリジナルな設定になっている。

【あらすじ】
 摂津国萱野村には萱野七郎右衛門という大百姓がいる。長男、次男は旗本の大島様の元に家臣として仕えている。三男は早逝し、四男の三平重実(しげざね)が家を継ぐことになっているが、三平はどうしても侍になりたい。13歳の時、両親に自分は兄2人と同様に侍になりたいと申し出る。三平を跡継ぎにするつもりでいた七郎右衛門だが、強い訴えに根負けし、大島様に相談して、三平を播州赤穂の浅野様にお小姓見習いとして出仕させることになった。三平はメキメキと頭角を現し、浅野内匠頭にも気に入られ、間もなく正式な士分になる。江戸・鉄砲洲の浅野家上屋敷に勤め、毎日忙しい日々を送る。萱野村の実家からは手紙が届くが返事は出さない。そのうちに手紙は来なくなった。
 三平26歳の時、元禄14年3月14日、千代田の城、殿中で浅野内匠頭による刃傷事件が起こる。この一大事を一刻も早く、国許の城代家老、大石様に知らせなければならない。萱野三平と速水藤左衛門は早駕籠に乗り、播州赤穂まで急ぐ。19日の明け方に赤穂へ到着する。この前日の夕方のこと、三平も速水も疲れ切っている。葬礼にぶつかり、駕籠は進むことが出来きない。駕籠から出てきた三平の姿に気づいたのは、偶然にも父親の七郎右衛門であった。三平が尋ねると母親が亡くなったと言う。三平は葬儀に参列するようにと言いつけられる。しかし侍であるからには主命が第一である。三平は涙を流し、また早駕籠に乗る。
 浅野の家はお取り潰しになり、赤穂の城は明け渡される。大石内蔵助は吉良への仇討ちをするための人選を密かに進める。この中には三平の名も入っている。  元禄14年4月の末、三平は萱野村へ一旦戻り、母親の菩提を弔う。浅野家もお取り潰しになったことだし、このままこの村で暮らせと父親は言う。三平は長屋門の二階で寝起きするようになる。
 秋も半ばになった。大高源吾が三平の元を訪ねてくる。人目を忍んで勝尾寺で両者は話し合う。3日後、父親が三平に嫁を決めたと告げる。相手は庄屋の娘のお袖で年は17歳だという。三平は備前・岡山の池田家への出仕が決まっていると断ろうとするが、父親は一度浅野家にお仕えたのにそれは筋違いだと言う。
 暮れが近くなった。三平の元を寺坂吉右衛門が訪れる。勝尾寺で2人は話す。寺坂は仇討ちはまだまだ先だと告げ別れる。
 年が明ける。父への「孝」を取るべきか、主君への「忠」を取るべきか三平は悩む。祝言の当日の朝、三平は文机の前で胸に短刀を刺して自害し、父親の七郎右衛門がこれを見つける。遺書では親不孝を詫び、「晴れゆくや日ごろ心の花曇り」との辞世の句が認められている。七郎右衛門はすべてを悟り、三平の葛藤に気が付かなかった愚かさを許してくれと泣き嘆く。
 七右衛門は密かに大石内蔵助に書状を出し、三平が自害した旨を伝える。元禄15年12月14日、赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入り、上野介の首を取って見事本懐を遂げる。浪士の者たちが隣の回向院前で休んでいると、検分役の役人がやっている。萱野はどこにいるかと尋ねると、浪士たちは「萱野はここにおりますぞ」「萱野は我々の心の内におります」と言う。

忠孝の道を守りて津の国の萱野の里にきみゆる白露





参考口演:一龍斎貞弥

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