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『赤穂義士銘々伝〜神崎与五郎の詫び証文(神崎の堪忍袋)』あらすじ

(あこうぎしめいめいでん〜かんざきよごろうのわびしょうもん)



【解説】
 神崎則休(かんざきのりやす)(1666〜1703)は赤穂浪士四十七士の一人で通称は与五郎。この読物では神崎が仇討を成就させるためにぐっと堪える様が見どころになり、『神崎の堪忍袋』『神崎東下り』『神崎与五郎 仮名書きの詫び状』などの演題が使われることもある。
 赤穂から江戸へと向かっている神崎与五郎は、途中、遠州・浜松の煮売り酒屋で酒を飲んでいる。そこへ馬方の丑五郎という男が酔っぱらって入ってきて、馬に乗っていくよう迫るが、神崎はこれを断る。丑五郎は侍のくせに馬に乗らないのかと散々悪態を付き、仕方なく神崎は手を着いて謝る。さらに丑五郎は謝り証文を書けと言う。こんな奴とは思いながらも、仇討という大望が露見してはならない、神崎はぐっと我慢をする…。

【あらすじ】
 元禄十四年三月十四日、江戸城内松の廊下にて、播州赤穂城主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)は積もる遺恨に耐え兼ねて、吉良上野介(きらこうずけのすけ)を斬りつける。内匠頭は即刻切腹、お家は断絶。お国元の城代家老、大石内蔵助(くらのすけ)は殉死でもなく籠城でもなくご主君の仇討ちをする心づもりである。赤穂城を何事もなく引き渡し、赤穂浪士は京の丸山、山科などで会議を開く。あくる元禄十五年の春、御敵吉良上野介を討ち取るために、東(あずま)へと下った。
 浪士の一人、神崎与五郎則休(のりやす)は遅れて赤穂を出立、遠州・浜松の宿へ着いた。煮売り酒屋に腰を下ろし、酒と肴をちびりちびりとやる。そこへ入って来た馬方の丑五郎という男はへべれけに酔っぱらっている。丑五郎は安くするので馬に乗っていくよう迫るが、神崎はまだ疲れていないからと断る。丑五郎は侍が馬に乗るのが嫌だとはなんだ、やけに白いお前は侍でなく役者だろうなどと悪態を付く。神崎は確かに馬に乗るのが嫌いでは侍は務まらないと詫びる。丑五郎は詫びるなら地べたに手を着いて謝れと言うと、本当に神崎は手を着いて頭を下げた。あまりに素直なので意外に思った丑五郎は、さらに謝り証文を書けと言う。こんな奴と言い争っても仕方ないと思った神崎は懐中から矢立と紙を取り出して、スラスラと謝り証文書く。しかし丑五郎は漢字が読めない。今度は仮名で証文を書き直した。丑五郎は「かんざきよごろうのりやす(神崎与五郎則休)」という名前を「かんざけ(燗酒)のほうがよかろう、のり(海苔)がやすかろう」などとトンチンカンな勘違いをする。神崎の顔に唾を吐きかけて、丑五郎は酒屋を出る。あまりに無礼な奴、斬りつけようとも思ったが、それが元で吉良上野介を討ち取ると言う大事が万が一にも露見しては同士の者たちに申し訳ないと、ぐっと我慢をし、そのまま江戸へと向かう。
 元禄十五年十二月十四日、赤穂浪士は吉良の屋敷に討ち入り首尾よく吉良の首を討ち取って主君の無念を晴らし、翌年二月四日浪士一同は切腹する。
 浜松に松林堂という手習所があった。松林堂の先生は江戸滞在中に義士の敵討ちの話を見聞きし、それを浜松に戻って国元の子供たちに分かりやすく話した。子供たちは家へ帰り親に話すと、親たちもその話を詳しく聞きたいと松林堂に詰めかけた。そこへ現れた酒に酔った丑五郎。話の中に「神崎与五郎則休」という名前が出てくる。神崎様は役者のようないい男で、去年の春には東下りで浜松を通っただろうと言う。丑五郎は去年春の煮売り酒屋での出来事を松林堂の先生に話し、受け取った謝り証文を見せる。あの時の神崎様は赤穂浪士のお一人であったに違いない。死んで冥土へ行ったとしても、神崎様は極楽、丑五郎は地獄で会えないだろう。神崎様の書いた詫び証文を五両で買って貰い、その金を元に坊主になった丑五郎は江戸・泉岳寺へ向かう。泉岳寺の住持の許しを得て、丑五郎は罪障消滅のため義士の墓の廻りを掃除をして生涯を送ったのであった。




参考口演:一龍斎貞山

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