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『母恋奇談』あらすじ

(ははこいきだん)



【解説】
 珍しい読み物である。浅草永住町に住む甚太郎は大変な母親孝行である。寝たきりになった母親を懸命に介護する。この話がお上の耳に入り、5両の褒美を頂く。母親は、その金を使って、法華経を熱心に信仰していた父親のために身延山へ参詣してほしいと甚太郎に請う。こうして旅立った甚太郎だがいつまで経っても戻ってこない…。

【あらすじ】
 天保年間のこと。浅草永住町には日蓮宗の久遠寺の別院で、長遠寺という寺がある。寺には祖師堂があり傍らに柳の立つ井戸、柳の井戸がある。下谷稲荷町の飾り職人、甚兵衛はお酒が大の好物で中風になり、3年後に亡くなる。遺された女房のお辰は一人で子供の甚太郎を育て、スクスクと成長する。11歳になって、治郎兵衛の元に奉公し女性の簪(かんざし)や御神輿の飾りを作る修行をする。熱心に打ち込み、メキメキとその腕を上げる。休みの日には家に戻り、母親の世話をする。針仕事をする母親の傍らで借りてきた本を読み聞かせる。治郎兵衛も甚太郎のことを可愛がり、普通は21歳で年季明けなのだが、19歳のときにさせると言う。甚太郎が実家に戻ると、母親はなぜ帰って来たのか、お前はまだ2年間お礼奉公をしなければならない、それまでは家の敷居を跨がせないと言って追い出す。治郎兵衛のところへ戻ると、それでは義理が立たないという。また母親の元へ行くとやはり義理が立たないと言う。近所の人が間に立って、お礼奉公を1年間だけするということで決着がついた。
 1年経ち、甚太郎は実家へ戻る。ある日、母親はふとした誤りから後頭部を打つ。言葉を掛けるがボーとして泥人形のようになる。甚太郎は寝たきりになった母親を介護し、母親を負ぶって銭湯に出かける。町の人はそんな甚太郎のことを孝行者だと誉め評判になる。この話が奉行である筒井伊賀守様の耳に入り、甚太郎はお褒めの言葉と金5枚を頂く。母親はなぜそのような大金があるのかと聞くが、甚太郎は悪いことをしたわけではない、ご褒美を頂戴したと答える。何か欲しい物はあるかと母親に尋ねると、法華経を信心していたお父さんは一度、身延山にお詣りしたいと常々語っていた、お前がお父さんに代わって身延山にお詣りに行って欲しいと言う。
 天保3年9月の半ば、母親の世話は治郎兵衛に任せ、甚太郎は一人身延山へと旅立つ。八王子、小仏、笹子、甲府、鰍沢と進み、身延山をめざす。一方、母親は甚太郎が出立した日に高熱を出す。備前の大名のお抱え医師であった太田道庵が毎日往診し、高い薬を母親に与えると快方に向かう。良くなってくると今度は治郎兵衛の元の若い衆が負ぶって、母親を道庵先生のところに連れて行く。
 半月経っても、甚太郎は戻ってこない。十月始めの日、夕方から雨が降り出し夜には激しくなっていく。この晩も治郎兵衛のところの若い者である清吉が母親の元に通う。帰って来ない甚太郎のことを宿場女郎にでも引っかかっているのではないだろうかと話す。四ツの鐘がなるころ、雨はいっそう激しくなる。戸がガラッと開き、そこには甚太郎がいる。東海道の吉原宿で古釘を踏み抜き足に毒が回って逗留していたと言う。明日からは私が母親を負ぶって道庵先生のところへ連れて行くと告げる。
 甚太郎が戻って来て7日目。家主の六右衛門を旅姿の者が訪ねて来る。男は甚太郎について尋ね、六右衛門は店子だと言う。この男は甲州・鰍沢の船着き場の者である。彼は以下のように語る。先月25日、船が鰍沢を出、身延からは甚太郎らを乗せる。この日は大水の出た日で、川を下っていると船頭は操作を誤り、船は岩に当たって木っ端みじんになってしまった。船に乗っていた人は皆死んでしまった。着物に縫い付けてあった名前から甚太郎のことが分かり、今日、お骨をお持ちした、以上が彼の話である。
 六右衛門らが、甚太郎の家に入ると、提灯が掛かっており、母親が一人でションボリと座っている。甚太郎を探すが見つからない。祖師堂まで行くと、柳の井戸の前に草履が並べてあるのが見つかるが、これは甚太郎のものである。ここは甚太郎が身延山へ行くのに先立ち水垢離をしていた井戸であった。母親を負ぶって世話をしたい、母親を思う一念で、甚太郎があの世から姿を現していたのであった。




参考口演:田辺鶴遊

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