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『幡随院長兵衛〜長兵衛の生い立ち』あらすじ

(ばんずいいんちょうべえ〜ちょうべえのおいたち)



【解説】
 二代目神田山陽は「若き日の幡随院長兵衛」という演題も使っていた。「幡随院長兵衛」(1622〜1650)は江戸時代の侠客。本名は塚本伊太郎で、唐津藩の武士の息子であった。武士の身分を捨てて、大名に働き手を周旋する人入れ元締めとなる。腕っぷしが強くて面倒見がよく、義理に厚い「男のなかの男」として讃えられる。旗本奴の水野十郎左衛門と対立し、水野の屋敷で殺害されたとされる。講談では連続物として読まれるほか、歌舞伎でも「極付幡随長兵衛」などで有名。

【あらすじ】
 肥前国・唐津の城主、寺沢兵庫頭(ひょうごのかみ)家来で3000石の禄を食んでいた塚本伊織の嫡男、伊太郎というのが、幡随院長兵衛の前名である。寺沢家は天草騒動の折にお取り潰しになってしまい、塚本親子は江戸に出る。芝・露月町(ろげつちょう)で元は中間であった九助が八百屋を営んでいる。親子はこの八百屋の二階に住まわせてもらう。しかし間もなく父親の伊織は病気で亡くなってしまう。残された伊太郎はまだ13歳であった。九助は伊太郎に辛く当たり、こき使うようになる。しかし伊太郎は嫌な顔ひとつしない。八百屋ご御用聞きをしているうちに、丸の内の本多大内記候(ほんだだいないきこう)の番頭役、桜井庄右衛門という者の目に留まる。これは尋常な子ではない。立派に成長するであろう。九助に話しを養育料を支払って自分のところで引き取る。恒平(つねへい)と名を改め、身分は若党になる。庄右衛門には庄太郎という倅がおり、恒平とは同い年であるので、一緒に学問に通わせる。恒平はひじょうに優秀な子供であった。また剣術にも優れ、わずかの間に免許皆伝になる。
 恒平が26歳の時のことである。他の者たちは留守にしており、屋敷には恒平と庄太郎ただ二人でいる。退屈をしていた二人は蹴鞠(けまり)をする。庄太郎は周りに指南をするほどの腕前で、様々な技を見せる。高く飛ばしてみせると春の風に乗って塀を越し、鞠は隣屋敷へと落ちてしまう。隣屋敷の主は彦坂善八郎といい200石取りの槍の先生だが、了見の良くない男で桜井家とは仲が悪い。庭で鉢の植木の手入れをしていたところで、目の前の石に鞠が弾む。ヒラリと体を避けたが、そのまま池の中へドブンと落ちてしまう。
 鞠を取りに来た恒平が庭に入る。善八郎は怒る。なぜ庄太郎でなく下郎の恒平が来るのだ。恒平は自分が鞠を蹴っていたと言う。嘘を付くな、オソレオソレと声がしたがそれは確かに庄太郎の声であったと善八郎は責める。キセルで恒平の額を勢いよく打つ。恒平の眉間が割れた。「よくも俺の眉間を傷つけやがったな」怒ると、今度は善八郎が後ろの立てかけてあった槍を取り上げる。恒平はバラバラと駈け出す。善八郎が追いかける。広いところまで来て、恒平はここで勝負しようと言い大手を広げる。善八郎は槍を突くが、恒平はヒラリと体をかわす。恒平が槍の先端を掴むと善八郎は動けない。善八郎は槍を手放してしまった。善八郎の腰が砕ける。仰向けに倒れた所で大きな石がある。この石にガツン頭をぶつけ、ウーンと唸る。打ち所が悪く善八郎は死んでしまった。そこへやって来たのが主人の桜川庄右衛門である。
 これから殿様にお目通りしすべてを報告する。殿様は本多忠勝の孫にあたる方である。善八郎の方が悪かったとの所見で恒平はお咎めなし、槍の先生を見事仕留めたとのことで殿様は200石を与えるという。恒平は固辞するが、殿様はどうしても与える、それが出来なければ手討ちにすると言う。「そういう無理を仰る方に仕えたくはありません」、恒平は堂々と答える。斬首に処せられることになったが、顔色はまったく変わらない。この度胸に感心した殿様は、刀の刃をちょっと首筋に当てただけで鞘に収め、袂から25両の包を二つを取り出す。「手討ちは済んだ。死骸は下谷、幡随院に遣わせ」。死骸駕籠に入れられた恒平は幡随院に送られ、しばらく奥座敷に匿われる。幡随院の門前には伊勢屋清兵衛という老人がいる。人入れ元締めで大名や旗本の屋敷に出入りをする。この伊勢屋清兵衛と意気投合し、恒平とは親子の盃を交わす。清兵衛が隠居すると、元締め稼業を相続し、名前を「長兵衛」と改める。弱きを助け強気きをくじく。本当の男のなかの男とだということから、幡随院長兵衛と呼ばれ称賛されるようになる。



参考口演:二代目神田山陽

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