『講談るうむ』トップページへ戻る講談あらすじメニューページへ メールはこちら |


『北斎と文晁』あらすじ

(ほくさいとたにぶんちょう)



【解説】
 江戸期を代表する浮世絵師の葛飾北斎と、高名な画家の谷文晁の友情の物語。北斎80歳ととき、長屋に三代目尾上菊五郎が訪れる。あまりの汚さに毛氈を敷くと北斎は怒って「帰ってくれ」と言う。こんな調子だから、北斎は貧乏暮らしである。そこで文晁は一計を案じる…。

【解説】
 画聖と言われた葛飾北斎と谷文晁の友情の物語。北斎は本所石原町、九尺二間の棟割長屋に住む。生涯に一度も掃除をしたことがないと言われ、部屋の中はまるでゴミためである。汚れるだけ汚してもうこれ以上住めないとなると、どこかへ引っ越す。生涯に93回引越ししたとも言われる。絵に関しては19歳のときに勝川春章(かつかわしゅんしょう)の門人となって、狩野派、土佐派をはじめ洋画、中国画などあらゆる画風を習得する。しかし生来の変わり者で、金に頓着せず、その日の生活にも事欠くという有様である。
 北斎が80歳ちかくになったある年の暮れのこと。北斎の家の前に一挺の駕籠が到着する。江戸一番といわれた名優、三代目尾上菊五郎が来たのである。家の中に入った菊五郎が驚いた。ありとあらゆるものが散らばり、上にはホコリが積もっている。「これは偉いところへ来た」と思った菊五郎。北斎は「お座りなさい」というが座るところが無い。菊五郎は駕籠の中に敷いてある毛氈(もうせん)を下男に持って来させ、それを畳の上に敷く。北斎はこれが気に食わずプイとしている。2人とも初対面から喧嘩になり、菊五郎はそのまま帰っていく。
 北斎は誰に対してもこんな様子であるからそうそう付き合う人はいない。谷文晁は高名な画家であり門弟が数百人もいる。文晁は穏やかな風流人である。ある年のこと、11代将軍家斉(いえなり)公が、浅草伝法院に参った時に、北斎と文晁を召された。この時北斎が何枚かの唐紙を座敷に広げ、大きな刷毛で一筋の川を描く。そして次の間からニワトリを持って来て、唐紙の上に放り出す。ニワトリの足には朱色が付けてあったので、唐紙がニワトリの足跡だらけになる。しかしこれが川の中に紅葉が浮いているように見える。奇抜な思い付きに将軍は大喜びである。文晁もたいそう感心する。これから気性が正反対の2人が親しく付き合うようになる。
 菊五郎が北斎の家を訪ねて2〜3日経つと、北斎の家に文晁がやってくる。文晁の紹介で菊五郎は春の狂言のため舞台に絵を描いてもらいに訪ねてきたのだという。菊五郎は謝りたいというので、暮れの大晦日、北斎、文晁、菊五郎の3人は料理屋で除夜の鐘を聞きながら酒を交わす。春の狂言をぜひ、北斎にも見てもらいたいと言う。
 正月3日、菊五郎の芝居が初日を迎えるが、これが大変な評判である。北斎も観たいと思っているが、手ぶらで行く訳にもいかない。寒いさ中だというのに、屑屋に火鉢と布団を買ってもらい、2分の金を拵える。芝居を見物し、終わると菊五郎が北斎を訪ねてくる。北斎は祝儀として2分の金を渡す。
 家に帰ってみると、火鉢も布団もない。畳の上にゴロンと横になる。文晁が訪ねてくると、北斎は寒気がして風邪をひいているという。火鉢も布団も売ってしまったとの話である。あきれた文晁だが、そこまでして義理を欠かなかったのはさすが江戸っ子だと感心する。金を置いていきたいところだが、それを喜ぶような北斎ではない。この日はそのまま帰る。
 また、2〜3日して北斎の家の前に一挺の駕籠が止まる。相模屋のお嬢さん、春江(しゅんこう)がお茶を催すので、北斎にも来てもらいたいという。春江というのは文晁の女弟子で今年17歳である。北斎は孫のようにかわいがっており、春江も先生先生といって北斎を慕っている。相模屋の茶室に案内され、春江は茶を立てるが来ている客は北斎と文晁だけである。他の客が来るまでと座興で、北斎と文晁との初めての合作で、富士と松、美人と花鳥など14〜15枚の絵を描く。そこで客である商人らが遅れてやってきた。「これは見事な絵ですな」、奪うようにして絵を買い求める。文晁は北斎に金包みをすべてを持って行って欲しいと言う。北斎は自分のために茶会を開いてくれた文晁の心持がうれしかった。北斎は喜んで金を懐に入れる。
 これから間もなく文晁は78歳で亡くなる。それから9年後北斎は90歳で亡くなり、現在も源空寺と誓教寺、すぐ近くに2人の墓はある。




参考口演:田辺凌天

講談るうむ(http://koudanfan.web.fc2.com/index.html
inserted by FC2 system