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『難波戦記〜平野の地雷火』あらすじ

(なんばせんき〜ひらののじらいか)



【解説】
 元和元年の大坂夏の陣。前年の戦いで和睦条件として堀をすっかり埋め立てられた大坂城は丸裸も同然である。徳川方は15万の兵で再び大坂に進軍する。大坂城の南東の平野郷では豊臣方の軍勢が退却し、家康はここに陣を移すことにする。地蔵堂には常念という年老いた坊主が一人残っていた。実はこれは豊臣方の軍師である真田幸村の策略で、平野郷のあちこちには地雷火が仕掛けられ、家康をおびき寄せて爆死させようとするものだった…。

【あらすじ】
 太閤秀吉により麻のごとく乱れた戦国乱世もようやく終結を迎える。秀吉公は62歳でお亡くなりになり、その後台頭したのが五大老の筆頭で関東250万石の大大名、徳川家康公である。慶長19年、豊臣家を滅ぼそうと20万の大軍でもって大坂城を取り囲む。しかしさすがは天下の名城で徳川方が何度攻めても落城させることはできない。大坂冬の陣は和睦ということで終わるが、その条件として大坂城はすべての堀を埋め立てられてしまう。翌年の元和元年、家康は今度は15万という軍で攻め寄せる。大坂方の10万の将兵は城を出て方々に陣を張るが、武勇高い武将たちが次々に討ち死にする。これに驚いた大坂方は方々に散らばっていた将兵が陣を立ち退いて大坂城へと戻る。
 大坂城の東南方向の平野郷という場所には大野三兄弟が五千の軍勢で布陣していたが、これも大急ぎで大坂城へ引き揚げる。これを聞いた家康は、安藤正次(まさつぐ)という者を斥候に出す。平野郷に来て様子を探るが、五千という大軍が大慌てで撤退したあとなので無惨なものである。隅から隅まで確かめるが、平野郷の真ん中のあたりに小さな地蔵堂があり、中からカタカタという音がする。正次の家来が格子戸をあけると、80を過ぎたのお坊さんが、手足を縛られて閉じ込められている。聞くとこの地蔵堂の堂守で常念(じょうねん)といい、大坂方の勝利を祈って念仏を唱えていたが、大野の軍勢が引き揚げるときに自分たちのことを喋られたら困ると、手足を縛られ堂のなかに放り込まれたという。歳をとったお坊様だからとこの常念は助けられる。
 これから家康公は本陣を平野郷に移すことになった。実はこの常念という坊主、大坂方の軍師、真田幸村の家来で三好清海入道(みよしせいかいにゅうどう)という癖者であった。幸村はかねてからこの平野郷に家康をおびき寄せて吹き飛ばしてやろうと考えており、方々に地雷火を仕掛けてあった。その導火線がこの地蔵堂の床下に集まっていた。清海入道は導火線に火を付ける役だったのだ。地蔵堂で念仏を唱えるふりをして、常念は火を付ける。導火線に火がたどるが、家康公は強運の持ち主である。突然便意を催し、厠(かわや)に行っているあいだに地雷火は炸裂する。
 500名の家来を連れて馬に乗り、平野郷のを脱出しようとするが、地雷火は方々に仕掛けてある。行く先々あっちこっちで次々と爆発する。二、三丁ばかり行き、動揺する家来たちを家康は勇気づける。卑怯な幸村は手下の者にこのようなことをさせて自身は来ていない、自分ならばこの辺りに伏勢を備えておくだろう、幸村はまだ未熟であると家来と共に笑う。そこで薮の中より何者かが現れ、火縄銃70、80挺から家康の軍勢めがけてバーンと弾が放たれる。ここには真田の家来100人ばかりが控えていた。500名のうちの半分は残って真田の軍勢と戦い、半分の者は家康公に付いてその場を引きさがる。「真田の軍勢もここまで来るまい、まだ未熟だのう」。するとまたここでもまた傍らの松林から真田の火縄銃が襲う。半分が残って半分が逃げる。こんどは杉林から、こんどは桧の林から。これを7度繰り返したという。
 元和元年5月6日、夕方から真っ暗になってザーザー降りの大雨になる。馬も人も疲れ果て家康の軍勢はこれ以上進むことは出来ない。ここで出会ったのが大久保彦左衛門、大津土左衛門である。「真田はまだ未熟だな」、家康がこういうと、松明の灯りがパーと広がる。真田の軍勢百数十名に囲まれている。
 ここで登場したのが大坂方の軍師、真田幸村である。幸村は家康公にその御首(みしるし)を頂戴したいと言う。「分かった分かった、もうくれてやる」。家康ももう観念した。幸村が刀を抜くと、雨はいっそう激しくなり稲光がピカッピカッと光る。すると四方を照らしていた松明がスッと消えてしまう。しめたと大久保彦左衛門は家康を脇に抱え込み、水たまりの中をチャチャチャと走り逃げていく。幸村の軍勢も追おうとするがなにしろ真っ暗で大混乱である。二、三丁逃げて彦左衛門は力が尽きた。馬に乗った幸村がようやく追いつく。倒れた家康の上に彦左衛門が仰向けになって覆いかぶさって庇おうとする。二人とも串刺しにしてしまえと、幸村が上から槍を突く。しかし彦左衛門の鎧の胸金物(むながなもの)の鍛えが良かったのか、槍の先がツルッと滑る。ここで大津土左衛門が目茶目茶に振り回していた槍が幸村の乗っている馬の腹に突き刺さる。馬は棹立ちになり幸村は落馬する。打ちどころが悪かったのか幸村は動けない。これはしめたと彦左衛門は再び家康を脇に抱えて、チャチャチャと逃げる。なんとも無念、また取り逃がしてしまった。幸村は家康の武運の強さに感嘆しそのまま大坂城へ引き揚げる。
 一説には、これから家康は山寺に逃げ、ここで死人を乗せた駕籠の中に紛れ込む。途中後藤又兵衛と行き会い、怪しいと思った又兵衛はこの駕籠を槍で突くが、これが運悪く家康の胸に刺さり絶命する。家康が中にいるとは知らないので又兵衛はそのまま通り過ぎる。その先駕籠を降ろしたところ、初めて事切れた家康が発見される。家康の死骸は泉州・堺の南宗寺の床下に埋められた、と上方講談ではこうなるが東京の講釈師はこれでは困る。
 その翌日の5月7日が最後の戦いになり、幸村とその軍勢は奮戦するが、ついには四天王寺の坂の下、今の安居天神の辺りで最期を遂げる。この日大坂城も落城し、豊臣の家は完全に滅ぼされたのであった。




参考口演:神田鯉風

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