『講談るうむ』トップページへ戻る講談あらすじメニューページへ メールはこちら |


『英一蝶 干物便り(浅妻舟)〈柳沢昇進録〉』あらすじ

(はなぶさいっちょう ひものだより・あさづまぶね))



【解説】
 連続物の「柳沢昇進録」のなかから独立してよく演じられる。演題は『英一蝶(はなぶさいっちょう)干物便り』または『浅妻舟』とも。
 英一蝶がまだ多賀朝湖と名乗っていた頃、豪商の紀伊国屋文左衛門に連れられ、大勢の文人墨客と共に吉原へと赴く。宴席でふと足元を見ると1本の女性物の扇が落ちている。これを拾って開いてみると、そこに貴人と白拍子姿の一人の女性が湖上で舟に乗っている絵が描かれていた。この絵を元に『浅妻舟』という名の絵草紙にして販売し評判になるが、これが将軍を揶揄する絵だとして役人に捕まり、三宅島への遠島になる…。

【あらすじ】
 江戸時代、洒脱な風俗画で有名になる英一蝶(はなぶさいっちょう)が、まだ多賀朝湖(たがちょうこ)と名乗っていた頃の話。知られた通り紀伊国屋文左衛門は一代で巨万の富を築いたという豪商である。今日も大勢のお伴、文人墨客を連れて吉原へと赴く。
 宴席で一同は楽しく酒を酌み交わしている。ふと見ると朝湖の足元に1本の女性物の扇が落ちている。これを拾って開いてみると、湖なのだろうか海なのだろうか。そこに一隻の舟が浮かび、そこに貴人と白拍子姿の一人の女性が乗っている。朝湖はこの絵が大変気に入った。その夜、自宅で年老いた母親が待っている朝湖は一足早く、宴席の場から去る。
 家に戻った朝湖はさっそく拾った扇の絵を元に下図を描き始める。翌朝、土産を持って宝井其角(たからいきかく)が訪れる。其角はその絵に『浅妻舟』という名を付け、絵草紙にしたらどうかと提案する。絵草紙になったこの絵は江戸の市中で飛ぶように売れ、大評判になる。
 ちょうどこの頃、側用人の柳沢吉保は五代将軍綱吉から寵愛を受けていた。吉保は出世のためなら金でも女でも使うという男である。こともあろうに自分の女房、「おさめ」を将軍に差し出した。綱吉はしばしば吉保の別邸・六義園に通い、園内の池に舟を浮かべ、おさめとともに遊興にふけっている。いつしか、『浅妻舟』の絵は将軍と吉保の妻、おさめを描いたものだとの噂が人々の間で広まる。これは将軍を愚弄するものだとして、朝湖は役人に捕らえられる。三宅の島への流罪が決まった朝湖。流刑地に向って船が出帆する際には其角が別れを告げに訪れる。朝湖は家に残した年老いた母親の面倒を其角に頼む。また島ではムロアジの干物を作る作業をさせられるが、干物のエラには松葉を挟んでおく。もしエラに松葉が挟まった干物を見たら私のことを思い出してくれと言い残す。
 朝湖が頼んだ通り、其角は彼の母親の面倒をみる。エラに松葉の挟まった干物はないか。其角は河岸の問屋で干物をむしって手当たり次第に探すが見つからない。毎日河岸に通っているうちに其角が来ると問屋では干物を隠してしまう。
 ある日、其角の住む町内には新参の魚屋の棒手ィ振が訪れる。さっそく其角はムロアジの干物を全部買い上げ、一枚一枚むしっていくと、エラに松葉の挟まった干物が見つかる。これを朝湖の母親に見せ、朝湖は三宅島に元気でいると喜び合う。其角は干物を白木の台に乗せ、これを床の間に置く。干物の前で一服茶を立てる。この時詠んだ句が「シマムロに茶を申す日の寒さかな」。
 やがて島にいる朝湖は手紙を出すことが許されるようになる。朝湖は其角宛てに島での様子を伝え、また残してきた母親の身を案じる長い手紙を送る。その手紙の最後には「初鰹からしが無くて涙かな」という句が添えてある。其角は返事の手紙で「そのからし聞いて涙の鰹かな」という句を書き添える。
 ある年の正月、朝湖は初夢を見る。自分が蝶々になって懐かしい江戸の町へと戻り、母親と再会する夢だった。この夢は正夢だった。松が明けて大赦で朝湖は江戸への帰還が叶う。これを機に朝湖は英一蝶(はなぶさいっちょう)と名を改めて、ますます名を高め、江戸期を代表する絵師のひとりになったという。




参考口演:神田松鯉

講談るうむ(http://koudanfan.web.fc2.com/index.html
inserted by FC2 system