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『保科正之 出世葵』あらすじ

(ほしなまさゆき しゅっせあおい)



【解説】
 保科正之(ほしなまさゆき)(1611〜1673)は陸奥会津藩の初代藩主。三代将軍・徳川家光の異母弟。母親の静は二代将軍・秀忠の妾であり、正之の出生は秀忠側近数名のみしか知らなかったという。複雑な生い立ちゆえ信濃高遠藩主の保科正光が預かり、正光の子として養育される。家光は鷹狩の際に訪れた目黒の寺で、僧侶から高遠藩主の保科正之が弟であると知らされたという逸話はこの読物にもある通り。
 家光、四代将軍・家綱を補佐して幕政に携わり、文治政治を推し進めた名君として知られている。

【あらすじ】
 江(ごう)の父は浅井長政、母は織田信長の妹、市(いち)で三姉妹の末っ子である。江は徳川2代将軍、秀忠の元に嫁ぐ。3代将軍家光の生母となり御台所様と呼ばれる。秀忠との夫婦仲は大変良く、秀忠も側室を持たなかった。秀忠はちょっとした間違いから、後北条家の家臣の娘である静という女性に手を付け、慶長16年5月7日、幸松(ゆきまつ)のちの保科正之が産まれる。江は秀忠より7歳年上の嫉妬深い女性であり、幸松の出生はひた隠しにされる。幸松は母親・静とともに、武田信玄の次女である見性院(けんしょういん)に預けられ育てられる。幸松7歳の時、一人の曲者が忍び入る。静や下男たちを縛り付けるが、家来の者が斬りつける。曲者の懐には通行自由の木簡がある。果たしてこれは御台所様が差し向けたのか。
 今、江戸の城では長男の竹千代様と次男の国松様でどちらが将軍の後継にふさわしいかで争いの中にある。そんな中、幸松が加われば面倒なことに巻き込まれかねない。秀忠に申し出た上で信州・高遠藩の藩主、保科正光が幸松を養育することになった。武芸にも勉学にもよく励み、正光を実の父親のように思う。将軍の子であるとの自らの出生について知らされても驕るようなことはなかった。正光は将軍・秀忠と幸松とが対面できるよう奔走するが、御台所様の耳に入れる訳にはいかず叶わない。寛永8年、正光は死去。幸松が家督を継ぎ、高遠3万石の城主、名を保科正之と改める。すでに御台所様も亡くなり、秀忠の子であると天下に明らかにすべきであると言う家臣もいるが、名乗り出て迷惑をかけてはならないと正之はこれを断る。翌年には秀忠も亡くなり、正之の母の静は髪を下ろし、浄光院となって寛永12年に亡くなる。
 寛永13年のある日、3代将軍となった家光は目黒に鷹狩に出掛け、成就院という荒れた寺で住職から水を一杯所望する。家光が寺の襖絵ついて尋ねると、これは信州・高遠の保科様から頂いたものだという。相手が将軍・家光だとも知らず住職は語りだす。保科様は先の将軍様が亡くなった際、供養に相当な金を使いその支払いでこの襖絵を頂いたこと。さらに、保科様は実は現在の将軍様の異母弟であること。初めて聞かされ家光は驚く。
 家光は城に戻り、語りたがらない家臣の者を問い質して、保科正之が弟であるのは真実だと聞く。こうして家光・正之兄弟の対面が実現し、正之は出羽国山形藩20万石の大名になる。山形・浄光寺を母親・静の菩提寺にし、兄との対面が叶った事を墓前に報告する。さらに有能な正之は家光を良く補佐し、会津32万石の大大名へと出世する。偉ぶらない正之は家光から「徳川」の名を名乗るよう勧められても、自分を育ててくれた保科家の恩を忘れず、これを断る。慶安4年、家光が48歳で亡くなると、正之はまだ幼い4代将軍家綱の後見役となり、この後の徳川の世における文治政治の礎を築いたという。




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