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『情けの仮名書き』あらすじ

(なさけのかながき)



【解説】
 自分には学が無いがこの子は立派に育てたい、我が子に対する母親の情愛の物語。米沢藩に「黒井しげの」という武士の夫に先立たれた女性がおり、信蔵という七歳になる一人の子供がいる。信蔵は儒学の先生から教えを受け、毎朝、食事の前には予習、復習をする。信蔵に分からない事は、母親のしげのが丁寧に説明する。信蔵は母親の学才に感銘し、また感謝をする。信蔵は米沢藩の藩校に入り、優秀な成績で卒業した。こうして20年経ち、ある時意外なことが分かる…。

【あらすじ】
 幕末、天保のころの話。奥州・米沢藩のとる町に黒井しげのという一人の夫人がいた。黒井家は代々、上杉家の家臣でしげのは家付きの娘である。藩中から源三郎という夫を迎え、夫婦は仲睦まじく暮らす。2人の間には信蔵という子供も生まれた。しかし源三郎はふとした風邪が元で病の床に就きやがて亡くなってしまう。乳飲み子を抱えてしげのは途方に暮れるが、立派にこの子を育てようと決意する。内職で機(はた)を織ったり、糸を繰ったりして一心不乱に働く。
 黒井家の隣には粕谷一紀(いっき)という儒学の先生がいる。7歳になり信蔵もまた粕谷先生の教えを受ける。母親のしげのは朝食の前に、この前習ったところをさらってみなさいという。「学而(がくじ)第一、子(し)のたまわく、学んで時にこれを習う。朋(とも)あり、遠方より来たる。またこれ楽しからずや」。信蔵が教わった文言を唱えると、しげのはこの意味を丁寧に説明する。「それでは今日習うところを言ってみなさい」「子のたまわく、巧言令色…」、信蔵は次の言葉が出ない。空で覚えているしげのはスラスラと語りその先を教える。母親の学才に感服した信蔵もまた勉学に励む。
 これから信蔵は米沢藩の藩校である興譲館(こうじょうかん)に入学する。ここで13年間、懸命に勉強に打ち込み優秀な成績で卒業すると教授の資格を得る。しかし給金は大したことはない。月一回の登城のために質入れしている紋服を受け出さなければならない。そのためにしげのも夜なべして働く。
 こうして20年経った。ある日信蔵は自室で素読をしていると、昨日まで破れていた障子がすっかり切り貼りされていることに気付く。母上が繕ってくださったのだと思う。その反故紙(ほごがみ)を見ると、女性が書いたとみられる仮名文字で「がくじだいいちしのたまわくまなんでときにこれをならう」、向こうのほうには「ともあてありえんぽうよりきたるまたたのしからずや」とある。これは論語の仮名書きだ。
 そこへ母親のしげのが入ってくる。どういうことですと信蔵が尋ねると、この紙の仮名の文字は自分が書いたと言う。しげのは打ち明ける。信蔵が7歳の時に、粕谷先生のところに通うようになったが、自分は無学で仮名がやっと書けるという程度。これでは信蔵の勉学を手助けすることは出来ない。黒井の家は父親がいないから子供もろくでもないと言われたくなかった。そこで信蔵が出掛けると、自分も紙と矢立を持って隣の粕谷先生の家の窓下に佇んで、先生のお読みになる声を聞きながら、一字一句間違えずに文字にしたためた。それを家に持ち帰って朝食の仕度をしながら何べんも何べんも読んで、空で覚えた。これを信蔵が粕谷先生の元に通っている2年の間、雨の日も風の日も雪の日も、一日も欠かさず続けた。その苦労が報われ、信蔵は一人前の学者になってくれた。こんな嬉しいことはないと涙を流す。これを聞いた信蔵もまた感激の涙を流す。残りの反故紙は譲ってもらい信蔵はこれを大切に保管する。信蔵はその後米沢藩の町奉行所に重用され250石の禄をいただいた。また仮名の書かれた反故紙は今でも黒井家の家宝とされているという。




参考口演:桃川鶴女

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