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『天保水滸伝〜笹川繁蔵の最期・三浦屋孫次郎の義侠』あらすじ

(てんぽうすいこでん〜ささがわしげぞうのさいご・みうらやまごじろうのぎきょう)



【解説】
 『天保水滸伝』というと現在では浪曲のイメージが強いが元は講談で、宝井琴凌という講談師が房総を旅した際に聴いた、侠客同士の抗争を読物として仕立てたものと言われている。下総国の東部では、笹川繁蔵と飯岡の助五郎、二人の侠客が勢力を争っている。ある時、繁蔵は子分の竹蔵を連れて相州の大山を参拝し、その帰りに四ツ塚にある権太のところへ寄る。竹蔵は一人先に権太の家を出て、繁蔵親分が帰ったことを伝えに笹川の十一屋へ向かうが、途中で須賀山村の名主、多左衛門と出会う。権太の家に繁蔵がおり、間もなく一人で笹川へと帰るだろうと多左衛門に告げるが、実はこの多左衛門は飯岡の助五郎の手下に通じているのであった…。

【あらすじ】
 天保の頃の話。下総国で一番の親分というと、飯岡の助五郎である。相模国の武士の倅とも漁師の倅とも言われている。一時は江戸に出て力士になったが、今では下総国海上郡飯岡で一家を構える。
 一方、最近売り出しているのが笹川繁蔵。須賀山村の醤油問屋の三男坊で、やはり江戸に出て相撲取りになったことがあったが、今は故郷に帰り一家を構える。須賀山村の笹川河岸には十一屋という旅籠があり、繁蔵はここの跡目を相続することになる。飯岡助五郎は笹川繁蔵が面白くなく、何かと難癖をつける。2者の間で小競り合いがおこるが、その度に間に入ったのが、土地の顔役、木村屋五郎蔵である。
 飯岡助五郎は天保15年8月6日、80人あまりの手勢でもって十一屋に殴り込みをかける。この時は黒山勢助という者が間に入り、なんとか収拾する。しかし、繁蔵の子分たちは散り散りバラバラになり、繁蔵も長い間笹川を離れることになる。大和路から紀州、泉州・岸和田、そして大坂へと旅をする。3年も経つと故郷が恋しくなり下総国へと戻る。
 繁蔵が下総国へ戻って最初に訪れたのが飯岡助五郎の家である。「スケの野郎はいるか」。若い者は「助五郎は銚子に行っていて留守です」という。これは嘘で、助五郎親分と繁蔵が顔を合わせると大喧嘩になると思ったのだ。繁蔵はここに預けた物を近いうちに取りに来るという。それは何かというと、「笠の台」、すなわち「首」だと語る。3年前の8月6日、ここに置いていったのは助五郎の首だ、その首を近いうちに取りに来るから首洗って待っていろと言う。こう言い残して繁蔵は立ち去った。子分から繁蔵が来たと伝えられた助五郎。繁蔵の様子を子分は話す。これを聞いて助五郎は激怒する。
 一方、笹川の十一屋では繁蔵が帰り、散り散りになっていた子分たちも戻ってくる。これから次々と縄張りも広げる。
 弘化3年の夏のこと、笹川繁蔵は竹蔵という若い者を連れて、大山詣りにいく。その帰り道、鎌倉、江の島を見物することにする。下総に帰ったのが、7月14日の晩である。まず2人は四ツ塚にある権太のところへ寄る。繁蔵は子供のように珍しい物を買いまくりに荷物が山のようにある。竹蔵は先に笹川の十一屋に戻り、旅から帰ったことを子分衆に伝えることになり、権太の家を出る。笹川へ戻る途中、須賀山村の名主、多左衛門とばたっりと出会う。竹蔵は繁蔵と旅から帰った所で、一人で先に笹川へ戻る途中だと告げ、2人は別れる。
 多左衛門が家に戻るとそこにいたのは、飯岡助五郎の身内で成田の甚蔵に三浦屋の孫次郎という者である。なぜこの2人が多左衛門の家にいたのか。多左衛門は百姓からの評判の悪く嫌われていた。一方、笹川繁蔵は評判が良い。多左衛門は繁蔵を憎々しく思っていた。そこで繁蔵と敵対する飯岡助五郎の身内を呼び入れていたのだ。多左衛門は「これから独り言を申します」と言う。繁蔵は四ツ塚の権太のところで酒を飲んでいる。まもなく笹川へ帰るだろうからビヤク橋を通る。橋の傍らには大きな榎があるのでそこに隠れていれば繁蔵を片付けることが出来る。こんな独り言をわざと甚蔵、孫次郎に聞こえるようにいう。
 成田の甚蔵と三浦屋の孫次郎は、竹槍をもってビヤク橋に駆け付け榎の陰で待ち伏せする。四ツ半、今でいう11時過ぎに繁蔵は四ツ塚の権太の家を一人出る。ビヤク橋に差し掛かって、榎の陰から成田の甚蔵が竹槍をもって飛び出る。繁蔵は刀を抜き、この竹槍を払う。はずみで甚蔵は長脇差をポロリと落とす。そこで長旅で弱っていたのか、繁蔵の草鞋のヒモがプツリと切れる。繁蔵は前にのめった。そこへ三浦屋の孫次郎が、竹槍を突きだす。これが繁蔵の脇腹に突き刺さる。繁蔵は倒れる。成田の甚蔵は長脇差もって繁蔵の首を刎ねる。
 甚蔵、孫次郎は繁蔵の首を持って助五郎の元に戻る。「よくやった」、助五郎は大いの喜び、この首は海に捨てて魚のエサにしろと言う。助五郎は繁蔵の首を足で蹴飛ばし、その首が転がって三浦屋孫次郎の元で止まる。孫次郎はこの繁蔵の首を頂きたいと言い、助五郎は好きにしろという。また親分・子分の契りを結んだ盃を返して欲しい、縁を切りたいという。孫次郎は徳川家康の故事を語る。天目山の戦いで敵将の武田勝頼を討ち取り、首を取ったが、父親の信玄から軍学を学んだことに感謝し、勝頼の首を井戸で洗ったという。それなのにこの助五郎は繁蔵の首を魚のエサにしろという。これは人間の言葉ではない。この首をこれから十一屋に届けるという。
 ビヤク橋では、首のない死骸が見つかる。着物や傷の跡から繁蔵であることが分かる。遺骸を十一屋に運び込む。もちろん助五郎たちの仕業だ。仇討ちをしようという話になったが、清滝の佐吉だけは「待て」と言う。そこへ繁蔵の首を持って十一屋にやって来たのは、三浦屋孫次郎である。繁蔵の身内の者たちは孫次郎を取り囲む。孫次郎は怯みもせず、「親分・子分の縁を切って、繁蔵の首を届けに来た。皆さまのお腹立ちももっともです。殺される覚悟はしている」と語る。殺されると分かって来たのか、いい度胸だ、腹は立つが勘弁して野郎、清滝の佐吉は言う。「承知いたしやした」、一同も同意する。すまねェ、すまねェ、孫次郎は言って、匕首を取り出し髷をプツリと切る。もう娑婆には未練はない、これからは笹川の繁蔵の菩提を弔って生きていくという。それから三浦屋孫次郎は姿を現すことはなかった。繁蔵の亡骸は共同墓地に埋められ、明治4年になり、繁蔵を讃える碑が建てられたのであった。




参考口演:神田春陽

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