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『渋川伴五郎〜魚屋伴五郎』あらすじ

(しぶかわばんごろう〜さかなやばんごろう)



【解説】
 渋川伴五郎(しぶかわばんごろう:1654〜1704)は江戸時代前期の柔術家。紀伊国出身(大和国という説もある)。柔術渋川流の創始者。講談では「渋川伴五郎の頓智」という前座が良く掛ける読み物で有名である。
 伴五郎はみだりに柔術の技を使ったとの理由で父親から勘当される。そこで出入りの魚屋の金八の家に世話になる。しかし伴五郎はゴロゴロするばかり。ある日、「おれは魚屋になる」と言い出す…。

【あらすじ】
 渋川伴五郎は父親譲りの鬼頭流柔術の使い手である。さらに紀州藩の藩士、関口八郎左衛門から習い覚えた関口流を取り入れ、渋川流柔術を創案する。ある日、友達ととにも芝・西久保を歩いていると、飛び入り相撲が催されている。薩摩の柔術家の水上六太夫が反則技を使って相撲取りを投げ飛ばす。これを見ていた伴五郎はその仇討ちと、この水上六太夫を投げ飛ばす。見物人には「渋川の若旦那は大したものだ」と評判になるが、いつしかこのことが伴五郎の父親、伴龍軒の耳に入った。柔術の技をみだりに使うとはなにごとか。伴五郎は勘当を申し渡され、品川芋根村の我が家を出る。
 八ツ山下へ通りかかると、出入りの魚屋、金八から声を掛けられる。父親から勘当されたというと、金八は私の所へ来ませんかと伴五郎を誘う。芝・宇田川町の魚屋金八の家で二階に厄介になる。伴五郎は眠りたいだけ眠り、酒ばかりを飲む。10日もすると金八の女房のお辰が嫌がるようになる。金八は何かやりませんかと問うと、伴五郎は気楽な魚屋になると言う。金八は侍が魚屋をするなんて無理だと言い、道場でも開いたらどうかと問うが、勘当されているからそれは出来ないと伴五郎は答える。
 結局、伴五郎は魚屋をやってみることになった。天秤棒に盤台を提げ、伴五郎は出かける。日が暮れてもなかなか伴五郎は金八の家に戻らない。ようやく帰ってきて、魚は売れたかと聞くと一つも売れなかったと答える。宇田川町から新橋、上野、下谷、隅田川を渡って向島とまわったが、何も言わず黙って歩いたと言う。それでは売れるはずがない。翌日も天秤棒を担いで歩き、三田の付近を歩くが大きい声というのはすぐに出せるものではない。
 ブラリブラリと歩いていると、ウワッーという声がし、野次馬が集まってくる。伴五郎も駆けつけた。2人の侍の前で、老人と17〜18歳の娘が必死にお詫びしている。侍はお前たちの無礼は勘弁出来ないと言い、金品を要求する。老人はいくばくかの金しか出せず、侍はこれでは許せないという。伴五郎は人だかりをかき分け、前へと出てくる。なぜ弱い者をいじめるのか。魚屋風情が何を言うと侍は刀を抜いて左右から襲ってくるが、伴五郎は身体をかわし、早業で侍2人を大地へ投げ飛ばす。弥次馬連中から歓声があがる。老人と娘は伴五郎に深々と礼をする。
 侍2人は薩摩藩の者であった。2人を盤台にくくり付けて薩摩藩の藩邸へと乗り込む。これを見て薩摩の家中の者は驚く。殿様は伴五郎の柔術の腕に感心し、当家に仕官しないかと誘うが、伴五郎は自分は勘当された身であるからと断る。これからいろいろあって、父親の伴龍軒が薩摩藩に仕官することになるが、この伴龍軒が殺され伴五郎は仇討ちの旅に出ることになる。この話はまた別の機会に。




参考口演:神田菫花

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