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『地震加藤』あらすじ

(じしんかとう)



【解説】
 天正20(1592)年に始まった朝鮮出兵(文禄の役)では武断派の加藤清正、福島正則らと和議を主張する小西行長、石田三成らの意見が衝突。清正は小西、石田からその独断専行を訴えられ、秀吉の怒りを買い、蟄居閉門に処せられる。文禄5(1596)年閏7月13日、京都を中心とした畿内を震源とする大地震が発生。秀吉の安否を心配した清正は真っ先に伏見城に駆け付け、謹慎処分を解かれる。ネットの情報では、同様の話が上方落語でもあるとのことだが現在演じる人はいないようである。

【あらすじ】
 豊臣秀吉公が伏見桃山に御殿を築いたときに、摂津の山中より四間四方もあろうという大きな石を掘り出して、御殿の寝所に据え付ける。そのための費用は莫大である。石田三成は「なんのためこのような大石を用いるのでありますか」とお尋ねになるが、秀吉公は大いに笑って「何かの役に立つこともあるだろう」と言う。御殿が完成して間もなく、慶長元年7月12日に、洛中洛外で大地震がある。桃山御殿は大破したが、秀吉の寝所は盤石であり安全であった。三成は秀吉公の先見の明に驚く。「大地震のことは御存じでありましたか」、秀吉は答える。「この世の中は百年に一度ずつ天変地異があるものだ。自分が生まれて50年、生まれる前50年大地震はなかった。そこでこのような大石を据え置いたのだ」。いつも大胆なようで最新の注意を払う秀吉公ならではの逸話である。
 この大地震で伏見・京都のみならず、畿内に大きな被害を及ぼす。この時、加藤清正は伏見・豊後橋そばの屋敷に謹慎中であった。地震の際は奥の部屋で「何妙法蓮華経」の掛物に向かって法華経を唱えていたが、秀吉公の御身が気に掛かり、すぐに桃山に駆け付ようとする。しかし家老である加藤清兵衛と木村又蔵が前に立ちふさがり屋敷から出そうとしない。「謹慎中の身でありますから、よりいっそうの勘気をこうむることになりますぞ」。清正は答える。「今は秀吉公が大事。八つ裂きの刑にされても構わない」。朝鮮から帰ったばかりの豪傑28人が豊後橋の清正の屋敷を飛び出すが、八方から火の手は燃え上がり、天を焦がす有様である。
 伏見桃山の御殿の前まで来ると、門番小屋は潰れ、三人の門番は圧死している。堀は崩れ、門は傾き見るも無残な状態である。門に固めがないのは危険である。二の丸と表の御門の固めるよう清正は家来に下知を下す。清正は城内に入り込むと、御殿はことごとく崩れ、その形も残していない。ただ、寝所のみはそのままで褥(しとね)の上に座しているのが秀吉公である。北政所(きたのまんどころ)、淀君と若君様、侍女たちも無事である。
 ふと見ると、子供のころから見知った尼、孝蔵主(こうぞうす)がいる。清正は「孝蔵主、孝蔵主」と声を掛ける。「おお、清正であるか、第一番に駆け付けたのがお主であるぞ」。清正は「謹慎を受けた身ではあるが、秀吉公に拝したい」と申し出る。孝蔵主は北政所に、北政所は秀吉公に清正が来たことを伝える。「謹慎を言い付けたのになんということだ。目通りは叶わぬ。事が済んだら重い処分にいたすであろう」。秀吉の怒りはますます大きくなってしまった。淀君は「秀吉公の御身が第一と駆け付けたのだ、それに清正はまだ若君様の姿を見たことがない。どうか怒りを収めて欲しい」と乞う。それでも秀吉公は許さない。孝蔵主に清正を追い返せと申し付ける。しかし秀吉はこうも付け加える。「もしそれでも清正が帰らないのであれば、良きに取り計らえ」。この意味を孝蔵主は悟り、清正に伝える。
 清正は幼いころから秀吉公に仕えて数々の合戦に参戦した思い出から、朝鮮まで出兵し武勇を挙げようとしたものの小西行長、石田三成に讒言されて帰国しなければならなかった悔しい思いまで孝蔵主に長々と述懐する。清正は秀吉公にお目通りすることは叶わなくても、中門の固めの役目を自分に任せてくれないかと申し出る。孝蔵主は北政所に伝え、北政所は秀吉公に伝える。あまり離れていない場所なので、幕の内にいる秀吉公にまで、清正の話すことはつぶさに聞こえていた。秀吉公も心を動かされた。この後、清正は中門の固めを無事務めた功績により、秀吉公のご勘気が許されたのであった。




参考口演:田辺凌鶴

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