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『次郎長と伯山』あらすじ

(じろちょうとはくざん)



【解説】
 村上元三の作で、六代目一龍斎貞丈のためラジオ放送用に書かれたドラマ風の講談。現在は弟子の貞心、そして孫弟子の貞寿へと受け継がれている。
 旅回りの講釈師、松廼家京伝は晩年の清水次郎長の元を訪ねる。次郎長は自分の生涯を読物にしてみないかと勧める。次郎長の死後、京伝は自分で拵えた次郎長の講釈を演じるが、これがまったく面白くない。その後、京伝は身体を壊し寄席の下足番になった。そこに神田小伯山という有望な若手講釈師が現われた。京伝は小伯山に、次郎長の話を面白いものに作り上げそれを演じてほしいと頼む…。

【あらすじ】
 明治初期の話。10年ぶりに清水次郎長の元を訪ねたのは、松廼家京伝(まつのやきょうでん)という旅回りの講釈師。「東海遊侠伝」という次郎長について書かれた本を見つけ、懐かしくて久しぶりに会いに来たと言う。この本を書いたのはかつて次郎長から世話を受け、今は新聞記者をしている天田五郎という人物。次郎長が60歳になるまでの人生を一冊の本に纏めた。次郎長は京伝に自分について書かれた本があるなら、今度はお前が俺のことを講釈にしてみろと勧める。京伝は「遊侠伝」を読みさらに、次郎長の子分から話を聞き取りながら点取り(講談の要所要所を記したメモ書き)にまとめる。
 明治26年春に次郎長は体調を崩し、冷たい雨の降る6月13日この世を去る。梅蔭寺での葬儀には3千人という参列者が訪れたという。墓の前で、京伝は次郎長親分の話の作成が間に合わなかったことを詫びる。
 東京の端席に出演した京伝は自らが作り上げた次郎長の講釈を演じるがこれがまるで面白くない。明治33年、身体を壊し語る気力も無くなった京伝は寄席の下足番になった。
 ここに神田小伯山という30代の若手ながら、将来が期待できる講釈師がいる。小伯山の才能に目を付けた京伝は、鳥越にある彼の自宅を訪ねた。大切にしていた「東海遊侠伝」の本と自分が書いた点取りを見せ、これをあげるので是非面白い話に練り上げて、小伯山に演じてほしいと頼む。感じ入った小伯山は、鳥越の自宅近くに京伝を住まわせる。
 小伯山は伯山の名を継ぐことになった。両国での披露目の興行は一か月も続く。この間に京伝は酒の上から喧嘩をし警察に連れていかれるが、伯山が身元引受人になり釈放された。伯山に顔を合わせづらくなった京伝は鳥越の家を出、行方知れずになる。
 一方、伯山は「森の石松」という愛すべき架空の登場人物を加えるなどの工夫をし、次郎長の話を作り上げる。明治41年、両国の福本亭で初演されるとたちまち大評判になる。当初は「名も高き富士の山本」という演題で演じられたが、客の間からは「清水次郎長伝」と呼ばれ、いつしかこれが正式な演題になる。伯山は近辺の寄席から客を奪ってしまうことから「八丁荒らし」と呼ばれるようになる。
 次郎長の十七回忌の年、伯山一行は熱海の梅屋という宿屋に泊まっていた。宿で風呂番をしている京伝と偶然にも再会する。すっかりやせ細り哀れな姿の京伝を見て、伯山は是非彼に自分の次郎長伝を聴かせたいと思う。興行主に話すと、急遽この熱海の地での公演が決まった。3日間の興行で溢れんばかりの客が詰め掛け、一番うしろの席で京伝はその高座をジッと見つめている。終了後、京伝はつまらない話をここまで面白くしてくれた事に礼を言う。また伯山も京伝にいくら感謝してもしきれない自分の気持ちを伝えた。もう先の長くない京伝は、自分が死んだらあの世から客を連れてくるからと言って、2人は別れた。
 それから間もなくして、東京に戻った伯山は梅屋から京伝が亡くなったことを聞かされる。その日の公演も客はぎっしりである。演じている途中、ふと見ると一番後ろの席に京伝が座っている。もう一度よく見ると消えている。今日の客は京伝があの世から連れて来てくれたのではあるまいかと思う伯山であった。




参考口演:一龍斎貞寿

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