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『クリミアの天使、ナイチンゲール』あらすじ

(くりみあのてんし、ないちんげーる)



【解説】
 フローレンス・ナイチンゲールは1820年、イギリスで上流階級の子として生まれる。1854年に勃発したクリミア戦争に看護婦として従軍。不衛生、非効率、権威主義的な兵舎病院の改革に努め、「クリミアの天使」と呼ばれる。また帰国してからはナイチンゲール看護学校を創設して、看護婦の人材育成、地位向上にも努力する。さらには数学の才もあり、病院の状況を分析してそれを図表化し、イギリスにおける統計学の基礎を築いた。

【あらすじ】
 日本では幕末で、ようやく世界へと門戸を開こうとしていた頃の話。ロシアは南下し、オスマントルコに侵攻しようとしていた。英・仏がオスマンを支援し、ここにクリミア戦争が起こる。英国はクリミア半島のセバストポリに陣を張るが、戦局は悪化するばかりである。国民の不満が高まり、国会でも大問題になる。クリミアをロシアに取られると、インドやアジアへ通じるルートを断たれてしまうのである。国防相のハーバード卿は、オスマンに看護師を送ることにし、その中にフローレンス・ナイチンゲールがいた。ナイチンゲールは1820年生まれ。上流階級に生まれて大切に育てられ、文学から数学まで幅ひろい教養を身につけている才女であった。
 20代半ばで慈善活動に参加し、下層階級の暮らしに触れ衝撃を受け、苦しむ人たちのためにと、家族の反対を押しきって看護師への道を進む。ハーバード卿の依頼を受け、戦場の病院で働くことになった。2週間かけてコンスタンチノープルに近い、後方基地のスクタリまで辿り着く。
 野戦病院はひどい有様でまるでバラックのようであった。床や天井は崩れ雨漏りがし、部屋には悪臭が漂い、ベッドには南京虫だらけ、傷病兵の傷口にはウジがわいていた。派遣された看護師が兵士に手を差し伸べようとするが、現地のジョン・ホール長官は勝手なことはするなと止める。ナイチンゲールらの出来ることは病院内の掃除くらいだった。兵士たちに与えられる食事は肉ひとかけらで疫病が蔓延する。厳しい冬になっても夏服のままである。防寒着も毛布も無く、兵士は次々と凍傷になる。こうしている間にも続々と負傷兵はスクタリの病院に送られ、その数は数千人にもなろうとしていた。疫病が流行り、とても手が回らず軍医たちも音を上げる。こうなればあの女どもを働かすしかない。こうして看護師たちは包帯を巻いたり、消毒をしたり、本来の仕事ができるようになった。
 しかし包帯も薬も数が不足している。ある日、年若の看護師が軍医長官の部屋で大量の医薬品があるのを見たという。ナイチンゲールがその部屋に飛び込んだ。木箱の中にはたくさんの包帯や薬がある。彼女はこの医薬品が必要ですと迫るが、長官は「これは軍の備品で、使用には委員会の承認が必要だ」と言い返す。次の委員会は3週間後だ。こうしているうちにも傷病で苦しみ亡くなる兵士たちがいる。ナイチンゲールは部屋の片隅にあった斧で木箱を壊し薬品を取り出した。
 汚れた床や壁を清掃し、窓を開けて換気をし、みるみるうちに病院は清潔になっていく。ナイチンゲールは本国に電報を打ち、医薬品、防寒具、毛布の支給、看護師200人の増員、病院の増改築が認められた。患者の半数が亡くなると言われた病院で、その数は数パーセントまでに減る。これにはジョン・ホール長官も舌を巻いた。ナイチンゲールは夜もランプをつけ、何百という病床を見廻る。従軍記者がこれを記事にし、彼女は本国でも大いに話題になる。いつしか「ランプの貴婦人」「クリミアの天使」と呼ばれるようになった。
 1856年に戦争は終わり、ナイチンゲールは国民的英雄になる。これが近代看護の始めとなったのである。




参考口演:宝井琴鶴

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