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『吉備大臣入唐記』あらすじ

(きびだいじんにゅうとうき)



【解説】
 吉備真備(きびのまきび)は、奈良時代の公卿、学者。695年に現在の岡山県倉敷市真備町(2018年7月の記録的豪雨で甚大な被害を受けた場所である)に生まれる。717年に遣唐使として阿倍仲麻呂らとともに唐に渡り(この読み物では2人は別時期に入唐したことになっている)、そのまま帰国せずに残留。唐には18年もの間滞在し、その間に幅広い学問を習得する。玄宗皇帝がその才を惜しみ、日本になかなか戻さなかったとも伝えられている。帰国してからは豊かな学識で朝廷から重用され、752年には再び唐にわたる。異例の出世を遂げて最終的には右大臣にまで昇りつめた。囲碁を日本に伝えた人物としても有名で、出身地の倉敷市では「吉備真備杯」という囲碁大会が開かれている。

【あらすじ】
 奈良時代の初めの頃の話。日本の国のためにどうしても入手したい唐(もろこし)の2冊の書物があった。それは暦(こよみ)について書かれた書物であり、唐の進んだ文化を取り入れるためにはどうしても必要なものであった。
 第一の遣唐使として阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)が選ばれた。唐津から出航し、現在の天津の港に着岸し長安の都へ。玄宗皇帝に拝謁し、例の2冊の書物をもらい受けたいと頼む。皇帝は2人の重臣、安禄山(あんろくざん)と楊国忠(ようこくちゅう)に相談する。安禄山は日本という国の文明が開けることにより唐の国の脅威になるのではと考える。とりあえず、日本人がどの程度の学問があるか調べることにする。仲麻呂に対して次々と難問を出すが、彼はこれをスラスラと答えてしまう。すっかり仲麻呂を気に入ってしまった玄宗皇帝。仲麻呂は日本に帰らなければならない身だが、玄宗皇帝はこれを押しとどめ、唐の国の官位を与えて自分のそばにいるように申し付ける。
 安禄山、楊国忠はこれが面白くない。奸策を弄して、凌雲閣の高殿へ仲麻呂を幽閉し、食事も水も与えない。衰弱した仲麻呂。間もなく命が絶えるであろう。日本にいる妻と子のことを想う。異郷の土になることを悲しみ嘆く。最後に三十一文字(みそひともじ)残したい。小指を噛み切り、その血で「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」と書き残した。こうして仲麻呂は35歳の時、餓死した。
 それから3年経って日本の国。阿倍仲麻呂は唐から帰って来ないし音沙汰もない。第二の遣唐使として吉備真備(きびのまきび)を送ることになる。難波の浦から唐津へまず移動する。なるべく波の穏やかな日に出航するため宿で待つ。8月15日、明日出航することが決まる。真備は夜空に輝く満月を見ながら仲麻呂はどうしているのだろうとしみじみ思う。
 翌日、唐津を出航し、12月の下旬になってやっと天津の港にたどり着いた。長安に向かい、玄宗皇帝に拝謁する。真備は安禄山と楊国忠に仲麻呂の消息を尋ねるが知らないと言う。暦に関する2冊の書物を頂きたいと頼むが、2人は今まだ評議中でしばらく待てと言う。仲麻呂が訪ねてもう3年も経つのにまだ評議中だとはと怒る真備。
 安禄山と楊国忠は、厄介な男が来たものだと追い払う方法を考える。日本には囲碁というものが無いだろう。我が国の囲碁の名人、ゲントウと勝負してもし勝ったら書物を渡すと言おう。もちろん真備が勝てるはずはないであろう。真備はこれを承けるが、囲碁というものが分からず困惑する。そこへ仲麻呂の霊が真備の前の出現する。彼は真備に囲碁について指南をした。真備はゲントウと対戦し、見事勝利をした。暦の書物を日本に持ち帰り、こうして作られた太陰暦は、明治五年まで長く使われることになる。




参考口演:田辺鶴遊

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