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『河村瑞賢〈柳沢昇進録〉』あらすじ

(かわむらずいけん)



【解説】
 講談での『河村瑞賢』はお家騒動の連続物『柳沢昇進録』のなかの一演目として演じられることもある。
 河村瑞賢(1618〜199)は江戸時代初期の商人で海運や土木事業にも携わる。伊勢国の貧農として生まれる。若い頃江戸へ出て車力、人夫頭などを経て、材木商を営むようになり、明暦の大火の際には木曽の材木を買い占めて莫大な利益を得る。この後幕府の公共事業に関わっていくようになる。また、幕命を受け、東廻り航路、西廻り航路を開き、海運の発達に尽力する。治水事業にもあたり、淀川やその下流の河川の改修にも力を注ぐ。これらの功績が認められ、晩年には旗本になったという。

【あらすじ】
 元禄時代の話。大坂の与八郎という者は早くに両親を亡くし、それならば江戸へ下って一旗あげようと東海道を東へ歩く。しかし品川宿で路用の金を残らず巾着切りに盗まれてしまう。
 高輪から八ツ山下をトボトボ歩いていると、荷車を引いた22〜23歳の威勢の良い男に呼び止められる。大木戸を通るのに荷車を後から押す人足が必要なので、後ろから歩いて付いてきて欲しいと言う。ただ歩けばいいと言うのに、与八郎は金が要るという。事情を聴くと、江戸へ出てきたが身寄りがないので、一番最初に声を掛けて来た人を親戚にしようと思ったと言う。荷車を引いていた男は清吉といい、車屋の親方は面倒見のいい人だからと、この親方の世話になったらどうかと持ち掛ける。また親方に紹介する際、清吉と与八郎は元々知り合いで、清吉は与八郎の父親にかつて恩を受けたという筋立てにする。
 田町九丁目の三河屋という車屋へ帰り、清吉の頼みで与八郎はここで世話を受けることになる。与八郎は自分が恩人の息子ということで清吉を「清公」と呼び捨てにする。「恩人の息子」というのは拵えた話で、本当の恩人は清吉であるはずなのだが、立場が逆転してしまったようである。車屋の夫婦は大変に親切でついつい長逗留になり、早くも七月になる。
 お盆になり、ご先祖様をお迎えするためにどこの家でも飾り付けをする。与八郎はお盆を終えたらこの飾りは捨てられてしまうと車屋の親方から聞く。お与八郎は親方の女房から紋付、羽織・袴を借り、清吉に荷車の用意をさせる。荷車を清吉に引かせて町内の家を方々巡り、患っている父親・母親を治すために精霊(しょうろう)を収集していると言って、真菰(まこも)を山のように集める。
 お供えしていたご飯を蒸して、石臼で搗くとお餅のようなものが出来上がる。これに蜜をつけると得体の知れない甘いものが出来る。これを箱に詰める。清吉がこれを食べてみると、甘いところと酸っぱいところがあってなかなか美味い。これを「酢甘(すあま)」と名付けて売ると飛ぶように売れる。今度また与八郎は、やはりお盆飾りのお牛やお馬を細かく刻んで甘味噌に漬けたものを作る。これを「やたら漬け」と名付けて清吉は売りに行くが、これも見事に売り切れる。
 小銭が山のように溜まって、これを車屋の親方と清吉に分けて渡し、自分はわずかばかりの金を持って姿を消した。この後、麹町に今でいうところの商業学の塾を創る。大坂に戻って時の勘定奉行に取り立てられ、士分になる。この時名を河村瑞賢と改めた。淀川の支流、安治川を開削して川が氾濫するのを防ぎ、この時の土砂を集めた山は瑞賢山と呼ばれた。江戸時代に名を成した河村瑞賢の一席。




参考口演:神田阿久鯉

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