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『大久保彦左衛門〜鳶の巣文殊山初陣』あらすじ

(おおくぼひこざえもん〜とびのすもんじゅやまういじん)



【解説】
 大久保忠教(ただたか:1560〜1639)通称「彦左衛門」は家康、秀忠、家光と徳川家三代にわたって仕えた武将。徳川の天下になってからは旗本の取りまとめ役のような立場になり、「天下のご意見番」として名高い。後年、大名・旗本たちに意見する際はすぐに自身のこの鳶の巣山での武勇伝を持ち出すというのが、講談でもお決まりのパターンになっている。

【あらすじ】

 大久保彦左衛門は幼名を平助といって、初陣が16歳の時であった。天正3年、三河国・長篠の合戦。織田信長が7万5千の兵を率いて三州・牛久保へ出陣、続いて織田と同盟を結ぶ徳川家康の兵も進軍する。相手は信玄の子息、武田勝頼である。
 5月21日の出陣の前日、織田・徳川両軍は評定を開く。このとき徳川の家臣である酒井忠次(さかいただつぐ)は、敵の喉首にあたる鳶の巣山を今夜のうちに乗っ取ってしまおうと言う。信長は7万5千の軍勢がいるのでそのような些細な戦はしなくても良いと言う。酒井は赤面をして席を退く。すると家康に呼び出される。家康は今夜のうちに鳶の巣山を乗っ取るというのは名案である、3千の兵を与えるので兵を進めよと言う。忠次は大いに喜ぶ。鳶の巣山を乗っ取って、信長公の鼻を明かしてやろう。すぐに3千の兵を率いて進軍する。
 20日夜、鳶の巣山の雁木坂、坂下まで押し寄せる。鳶の巣山の城中に籠っていた武田方は突然聞こえて来た陣太鼓に何事かと思う。見下ろすと旗を指した数百の兵が雁木坂を登ってくる。「さては徳川勢の夜襲か、引き付けておいて皆殺しにいたせ」。それとは知らず酒井方は城の手前まで迫ってくる。そこへダダダダダ、武田方の鉄砲隊が火を放つ。酒井勢は将棋倒しになり、進むことが出来ない。その中をかいくぐって、勇敢にも城内までたどり着いた者もいるが、今度は上から大木・大石がガラガラガッシャン、と落ちて来る。酒井勢は浮足立つ。武田方の将、飯尾明忠(いいのおあきただ)は、大薙刀を抱えた300人あまりの精鋭の騎馬武者を送り込む。パパパパパ。大薙刀を振り回し、酒井勢はさんざんに悩まされる。「一同退けえ」、戦上手の飯尾忠明は武田方の兵を城内にさっと引き揚げさせる。
 馬上の酒井忠次は「だれか盛り返しの一番槍を入れる勇者はいないか」と叫ぶ。「その一番槍は拙者が仕らん」、こう声を上げたのはまだ20歳にもならない若武者、大久保平助である。平助は武田方の真っただ中に飛びいり、勇猛に暴れまわる。酒井も喜ぶ。「平助、偉いぞ。一同、平助を敵に討たすな、平助に劣らず続け」。平助の兄、七郎右衛門と次右衛門が真っ先に馬を進め、平助の左右を助ける。
 この平助の働きには飯尾明忠もびっくりである。「徳川方にも若年ながらの豪傑がいるのか、それ討ち取れ」、武田方の兵が攻めるが、平助はまったく恐れない。「武田方に名のある者はいるか、一騎討ちの勝負をせよ」。出てきたのが武田の副将、和田兵部である。激しい戦いになったが、和田兵部はこの若造と侮っていたのが失敗だった。平助の槍を避け損ねて、左の眼から盆の窪までグサリと突き貫かれる。平助はヒラリと馬を降り、落馬した和田兵部の首を取る。再び馬に乗り、血の滴る和田兵部の首を手に持ち差し上げて、「大久保平助忠教(ただのり)、16歳の初陣にて、甲州方の鬼と言われた和田兵部の首を討ちとったり」と声をあげる。
 この声に鳶の巣の城内は大騒ぎである。一方、酒井の軍勢は気勢があがり、武田方を一気に攻める。飯尾明忠をはじめとした諸将が討たれ、この夜、鳶の巣山は落城する。この功により平助は家康へのお目通りが叶い、やがて彦左衛門と名を改めて家康公の側近として仕えることになる。




参考口演:田辺一乃・田辺凌天

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