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『大谷刑部』あらすじ

(おおたにぎょうぶ)



【解説】
 大谷刑部吉継(おおたにぎょうぶよしつぐ:1565〜1600)は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。越前国・敦賀5万7千石を所領とし、秀吉に重臣として仕えた。業病におかされながらも関ヶ原の戦いには西軍として参戦。小早川秀秋らが寝返り、西軍の敗戦が決定的になると「もはやこれまで」と悟り、家臣の湯浅五助に斬首させる。このとき吉継は、業病の首を敵方にみられたくないからと土の中深くに埋めてくれと頼む。その通り、湯浅五助は吉継の首を土中に埋めたのだが…。

【あらすじ】
 天下分け目の戦いと言えば、慶長5年9月15日の関ケ原の戦い。徳川方が約10万、対する石田方は8万3千。辰の刻というから午前8時に戦いは始まって、未の上刻、午後2時には勝負は決まった。最初のうちは互角の戦いであった。一応西軍でありながら態度をはっきりとしなかったのが小早川秀秋である。秀秋は豊臣秀吉の側室、北政所の弟の五男であり、小早川家に養子に出ていた。秀秋は山の上で形勢を見ていたが、12時頃に徳川方に寝返る。これで東軍の勝利は決定的になった。今でも悪役とされる小早川秀秋だが、それに対しすがすがしかったのは大谷刑部吉継(おおたにぎょうぶよしつぐ)である。越前国敦賀で5万石の小身であったが、50万石の器量があったともいわれる。義理堅い性格で筋を通すことを大切にする。わずか兵は1500であったが精鋭揃いでよく働いた。吉継は業病(ごうびょう)に罹り、顔中腫物だらけで膿が出て両眼が腫れふさがって前がなかなか見えない。しかし心の目で見抜く名将である。
 さて、関ヶ原の戦いでは吉継は四方開け放ちの駕籠に乗って近習にこれを担がせる。その脇に控えるのは北国随一と言われる豪傑、湯浅五助隆貞(たかさだ)である。戦の模様を逐一吉継に報告する。正面からの藤堂高虎の攻撃を退けるが、今度は後ろの方から味方であるはずの脇坂安治(やすはる)や朽木元綱(きつきもとつな)らが攻めて来る。そして小早川秀秋の裏切りである。正面も背後も敵だらけである。湯浅五助は「殿、もはやこれまででございます」と叫ぶ。「これでわしも太閤殿下に会いにいけるのォ。小早川秀秋め、3年の間にかならず祟りをなしてやるぞ」。さらに湯浅五助に告げる。「業病でただれたこの顔を、首実検でさらされるのは残念だ、自分の首を地中深いところに埋めて隠してほしい」。こうして湯浅五助は大谷吉継の首を斬り落とす。行年42歳。湯浅五助は衣類の袖をちぎって吉継の首をクルクルっと巻くと、腰に付け、そばにいる200名ほどの臣下には「戦はもはやこれまでじゃ、兵がむやみに命を落とすには及ばない」と告げる。馬に乗った湯浅五助は槍を振り上げ脇坂や朽木の兵を追い払い、目の前のこんもりした森へと目指す。しかし前日は土砂降りであたりは泥だらけである。石原峠というところを馬は泥を跳ねのけ走る。その後ろ姿を見ていたのは東軍の将、藤堂高虎の家来で19歳の若武者、藤堂仁右衛門高刑(たかのり)である。しかし湯浅五助の方が乗る馬が優れ、また馬を扱う腕も勝り、仁右衛門は追いつけずに10丁ほど遅れてしまう。
 湯浅五助は程よいところを見つけ穴を掘り、首を中に入れて埋める。「これから引き返して小早川秀秋の首をここへ持参いたします、少々お待ちを」と祈る。ここでいきなり五助の胸に藤堂仁右衛門の槍がプスッと身体に刺さる。大谷吉継の首を埋めるところを見ていたと仁右衛門は言う。湯浅五助は「殿は業病であるので、首のありかを尋ねられても言わないようにして頂きたい。その代わりに自分の首を貴殿に差し上げよう」、涙をながして仁右衛門は約束するという。湯浅五助の首を斬って仁右衛門は引き揚げる。
 合戦が終わり、勝利した東軍は首実検をする。すると天下の豪傑、湯浅五助の首がある。首を取ったのは藤堂高虎の家来で仁右衛門高刑という者だといい、帳面に付けられる。この帳面が家康の目に留まり、仁右衛門は家康に呼びつけられる。湯浅五助の首を取ったからには、大谷吉継の首のありかも知っているだろう。仁右衛門は知ってはいるが答えられない、湯浅五助との約束は破れないという。感心した家康は仁右衛門に1万石を与える。武士の約束は金鉄の如し。以上、関ヶ原の戦いのすがすがしい逸話として残っている。




参考口演:六代目宝井馬琴

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