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『応挙の幽霊』あらすじ

(おうきょのゆうれい)




【解説】
 落語にも『応挙の幽霊』という噺があるが、まったく別の話。『応挙の幽霊画』という演題も使われる。円山応挙は江戸時代中期の絵師で、1733(享保18)年の生まれ、1795(寛政7)年没。今に続く円山派の祖で、「足のない幽霊」の絵の元祖とも言われている。
 修行に出ていた京の絵師、円山応挙は、長崎で薄雲という花魁と出会う。彼女は幼い頃に誘拐されてあちこち売られていくうちに、この長崎の遊郭に辿り着いたという。今は病気で店の者から邪魔者扱いされ、ひどい仕打ちを受けている。応挙はそんな薄雲の姿を下絵に描いた。まもなく薄雲は亡くなり、応挙は薄幸な彼女を懇ろに弔う。そして京に戻り、馴染みの甚兵衛夫婦の茶屋を訪れるがここで意外なことが分かる…。

【あらすじ】
 京都の絵師で幽霊画の大家として有名な円山応挙がまだ修行中だった頃の話。日本全国を巡りあるとき長崎の街へ来た。丸山の遊郭、巴楼という家に揚がる。宵のうちは大いに騒ぎ、酒の勢いもあってその夜はぐっすり寝込んだ。夜中、手水に行くと「ウーン、ウーン」といううめき声が聞こえる。声を出して寝ていたのは薄雲というこの家の花魁で、半年前から病気なのだが医者にも診せてもらえず、店からは厄介者の扱いを受けて打ったり蹴ったりのひどい仕打ちを受けていると言う。さらに聞くと、幼い頃どこかの天神様の境内で遊んでいるところを人買いに誘拐され、人の手から人の手に渡り、この遊郭に勤めてから一時は売れっ子になった時期もあったが、今ではこのように邪魔者扱いされている。生国や親の事さえ知らない薄雲は、身元の手掛かりになるものとして、唐錦の布の切れ端を応挙に差し出す。応挙は三両の金を与え、薄雲の姿の下絵をさらさらと描く。
 翌日宿屋に泊った応挙。夜中、両手を着いて挨拶をする綺麗な花魁の夢を見てはっと目が覚める。あれは薄雲だ。夢で見た薄雲はやつれた姿ではなく、健やかな顔をしていた。翌朝すぐに巴楼へ行く。女中に尋ねると薄雲は昨夜亡くなったと言う。薄雲の墓は土饅頭があるだけで花一輪線香一本もない。寺の住職に事情を話し、永代供養料を収め、石塔を建て、懇ろに弔った。
 応挙は旅の最中、薄雲の身元の手掛かりを探すが一向に分からない。久しぶりに京都の街へ戻ってきた。馴染みの甚兵衛夫婦の掛け茶屋に行く。夫婦は証文の請け判が元で出来た七十両という借金を返せず近々夜逃げをすると言う。応挙は甚兵衛夫婦のために福の神の絵を描こうと思い立つが最近そのような絵は描いていない。いっそのこと誰も見たことがないような恐ろしい幽霊画を描こうと思い、長崎で描いた薄雲の下絵に手を入れ、完成させる。夫婦の元に持って行くと夫婦は怖がるが「これは福の神だ」と言い張って絵を渡す。この幽霊画が評判になって店には客が詰めかけるようになる。商売繁盛で店も大きくなる。子供がいなかった甚兵衛夫婦は、夫婦養子を迎え店はそちらに任せ、楽隠居の身となる。
 久しぶりに応挙が甚兵衛夫婦の元を訪れる。今度は以前の絵の続きと言って新たな絵を差し出す。夢で見た元気で綺麗な頃の薄雲を描いた絵だった。お礼として夫婦から先祖代々伝わる陣羽織を見せて貰う。陣羽織は裾の一部分が無い。はっと思った応挙は長崎で薄雲から受け取った唐錦の布を当ててみると切り口がピタリと一致する。夫婦はかつて大坂の天満天神のそばに住んでいた時分三歳になるおみつという娘が突然行方知れずになってしまったという。応挙は幽霊画に描かれているのはその娘だと告げ、長崎・巴楼での出来事の一部始終を話す。夫婦は驚きまた絵を前にさめざめと泣き、剛毅な応挙もまたもらい泣きするのであった。




参考口演:神田香織

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