姉川片腕の決戦(あねがわかたうでのけっせん)

『講談るうむ』管理人




 えー、もう何年か前の話になりましたが、サッカーのワールドカップ。日本対ポーランド戦での時間稼ぎのパス回しが随分と騒ぎになりました。この試合で終盤、日本はポーランドに0対1で負けていたものの、このままでもグループ2位で決勝トーナメントに進出できる。真剣勝負をすれば『警告』を受けただけで3位のチームに逆転されてしまうかもしれない。そこでダラダラと時間稼ぎのパス回しをして、相手と真向に勝負しようとしない。これが『いい』という方もいれば『悪い』という方もいる。スポーツというのは勝ち抜くことが目的なのだからルールに反していない限りは問題はない、という意見もありますし、いや、どういう状況であれ最後まで全力で正々堂々と戦うのがスポーツというものだ、という意見もあります。
 ちょっと前、大相撲でも白鵬の肘打ちが問題になりました。大相撲には肘打ちを禁止するルールはないのだから別段構わないという方もいますし、いやルールに関係なくああいう姑息な手は使うべきではないという方もいます。
 相手と正々堂々とフェアに戦う。今日のお話しは、そういうことが主題になります。
 戦国時代といいますと、名に残る戦(いくさ)、合戦はいくつもありますが、今回舞台になりますのは、『姉川の合戦』。織田と徳川の軍に対して浅井(あざい)・朝倉の連合軍が挑んだ戦いでございます。姉川と言いますと近江の国、琵琶湖の東側、新幹線に米原(まいばら)という駅がありますが、だいたいあの辺りでしょうか。
 永禄11年10月、6万の軍を引き連れた信長は破竹の勢いで京に上洛、京の都を手中に入れますと15代将軍である足利義昭を思いのままに操ります。そして越前朝倉氏に対し、京に上って服従するよう迫りますが朝倉氏は断固これを拒否する。こうして信長対朝倉。さらに朝倉氏には同盟関係にある浅井長政の加勢が付きまして、戦いが勃発します。これが世にいう『姉川の合戦』でありまして、戦いが起こったのが元亀元年、西暦で申しますと1570年のことでございます。

 この年の6月の末近く、今の暦でいうと8月の初旬、暑さも盛りという頃、浅井・朝倉との決戦に備えて待機しているのが、信長の家臣である氏家卜全(うじいえぼくぜん)。年はもう60にもなろうという老将ですが、百戦錬磨の兵(つわもの)でして、戦(いくさ)においては信長の右腕ともいえる存在でございます。
 ジリジリと陽(ひ)の照り付けるなか、床几(しょうぎ)に腰掛け、傍らに立つ最も信頼する家来、仁右衛門に語りかます。

●卜全「信長様は妹君であるお市の方様を浅井長政(あざいながまさ)に嫁がせたというのに、今度はその浅井を攻めるという。仁右衛門、どう思う?」
●仁右衛門「この戦乱の世でございます。致し方のない事と存じます」
●卜全「戦乱の世か…。この世の乱れはいかほど続いているのじゃろう」
●仁右衛門「いつからと申しますか。京の都を焼き尽くした応仁の大乱の頃からでしょうか。かれこれ百年にもなりましょうか」
●卜全「百年か。ということは今の世には戦(いくさ)のない時代を知る者はいないのだな」
●仁右衛門「そういうことになろうかと思います」
●卜全「わしもこんな世の中で、武将として先頭に立ちながら良く生きながらえてきたものじゃ」
●仁右衛門「それは親方様が屈強の武将、その武術において右に出る者がいないからでありましょう」
●卜全「いやいや、世を生き延びるということは武術に秀でているだけではなんともならん。昨日の味方を今日は裏切る。家臣が主君を平然と殺(あや)める。生き馬の目を抜くような世の中だ。わしはそういう中をひたすら生き抜いてきた。運もよっぽど強かったのであろう」
●仁右衛門「親方様は実直で心清きお方。そんなお人柄に天も味方しているのでしょう」
●卜全「そうそうおだてるな。ところで仁右衛門。ワシにもうすぐ孫が生まれるのじゃ。この子が大きくなる頃には戦乱も収まって、穏やかな世が訪れると思うのじゃが、どうかのう」

 そこへ、家来のひとり、山居信久(のぶひさ)が卜全の前に駆け寄ってきます。

●信久「親方様、ご報告いたします」
●卜全「なんじゃ、浅井の軍勢になにか動きがあったのか」
●信久「いえ、手前らの兵についてでございます」
●卜全「我が兵の者どもがどうかしたか」
●信久「連日続くこの暑さで、兵の者たちが身に着ける衣服がすぐに汗まみれになってしまいます。衣服の調達が間にあいませんで、各々勝手に洗濯をしだしたのでございます
●卜全「洗濯をするくらい構わないではないか」
●信久「それが、洗った衣類を干すのに、こともあろうに武具である槍を使っているのでございます」

 これを聞いて仁右衛門が憤然と怒った。

●仁右衛門「畏れ多くも信長様から拝領した槍でございます。兵の者たちを厳しく罰するべきです」
●卜全「まあまあ、そう怒るな。明日にでも戦は始まるだろう。我が兵の者たちも命がけじゃ。きれいにした衣服で少しでも気持ちよく戦いに臨んでもらおうじゃないか」
●仁右衛門「しかし親方様…」
●卜全「はぁ、はぁ、はぁ(と笑う)。泰平の世が訪れれば、槍なんという物騒な物は無用になって、民百姓の物干しの道具に使われるようになるかも知れん。我が兵たちは、ちと時代を先取りしているのかのう」

 この氏家卜全は戦国の時代に名を馳せる武将でありながら、いつまでもこの乱世が続くわけではない。戦国の世が終わった時代のことまで見通しているのでありました。

●卜全「ところで、仁右衛門。今度の浅井との合戦だが、相手に槍の名手といえば誰がおるかのう」
●仁右衛門「浅井方で槍の腕に優れている者となると。山下貞四郎、稲田元義などおりますが、やはり第一は浅井政澄(あざいまさずみ)でありましょう」
●卜全「そうか。同じ戦うにしても槍で正々堂々とやり合いたいものじゃのう。最近南蛮から伝わってきた『種子島』とかいう火薬仕掛けの飛び道具、どうもあれは好かん…。仁右衛門。わしは少し槍の腕が試したくなった。久しぶりにひと勝負しないか」
●仁右衛門「かしこまりました。稽古とはいえ、手抜きはいたしません」

 これから卜全と仁右衛門、槍の先に布を巻き付け勝負をいたします。

●仁右衛門「親方様、いきますぞ」
●卜全「どこからでもかかってこい」

 仁右衛門が有利かと思えば卜全が有利に、卜全が有利かと思えば仁右衛門が有利に、展開は目まぐるしく変わる。しかし仁右衛門が足を引っ込める間尺(ましゃく)を半歩ほど間違えた。そこをたちまち卜全は打ち込む。仁右衛門は「参りました」と声をあげ、槍を下ろします。それから水を飲み2人はしばし休息します。

●仁右衛門「親方様に仕えてもう二十年も経つと言うのにまだまだ敵いません」
●卜全「お前がわしの元に仕えてもう二十年か。人生というのは夢のようなものじゃのう。初めてわしと会った時のことを覚えておるか」
●仁右衛門「私が11の時のことでありましたか。かすかに覚えております」
●卜全「何をやらしても駄目な奴じゃった。剣を持つ手の右と左も分からない、3つ4つ年下の者と喧嘩しても負ける、そんな子供じゃったのう。周りの者たちは皆、こんな子は使い物にならないからさっそと追い出して百姓にでもした方が良いといったものじゃ。しかしわしは見抜いていた。覚えが悪くても、ひとつ物を飲み込めば着実に伸びる奴だと見抜いていた。それがいまでは立派なわしの右腕じゃ。よくここまで育ってくれたものじゃ」
 仁右衛門は目を細めます。

 さて、それから数日後、元亀元年6月28日、今の暦でいう8月9日『姉川の合戦』は勃発します。織田・徳川連合軍の兵の数は2万9千、対して浅井、朝倉軍の兵数は1万8千。この両軍は姉川の河原で総力戦に臨みます。
 願いかないまして、卜全の兵と対決することになるのは、浅井政澄(あざいまさずみ)の軍勢でございます。名の通り、政澄は浅井長政の遠縁の親類筋にあたる者でして22歳の若輩者。浅井方で一番の槍の名手でありまして、弟3人と共にこの姉川の戦いに参戦します。戦いの前夜、政澄は兵を集めて檄を飛ばす。

●政澄「我らもいろいろな敵と戦ってきたが、今回の敵、信長率いる兵は今までのなかでも最強であろう。貴様らの命は長政公のため捨てたと思え。あの世へ行って閻魔の前で敵に怯むこと無く、正々堂々と立派に戦って討ち死にしましたと報告してこい」
●兵たち「オゥー」
 と政澄の軍勢も意気が上がります。

 織田・徳川の軍勢は姉川の南側に陣取り、浅井・朝倉の連合軍はその北側に進軍する。姉川の戦いは開戦しました。政澄の兵の一人に亀山大八郎という者がおります。屈強・勇壮な男どもが揃っている政澄の兵の中でも飛びぬけて腕力が強く、ハンマー投げをさせれば100メートルは飛ばしてしまうという、オリンピックに出れば金メダル銀メダルが間違いなしというとんでもない男でございます。しかも的中する率がすごい。この男、これだけの力量があるのならば正々堂々と戦えば良さそうなものですが、人間がずるいところがありまして姑息な手段を使う。三十間も離れた岩陰から、敵の大将・卜全めがけて「エイヤ」と槍を投げます。
 エエ、念のため申しますと、この頃の槍の使い方というのは、突く、あるいは叩くというのが一般的で、投擲(とうてき)、投げるということはほとんど無かった。古代のローマ時代などにはあったそうなのですが。戦いに負けそうになって破れかぶれで投げるとか、まさに「投げやり」という言葉がありますが、そういう場合以外は槍を投げることはなかった。
 さて、亀山大八郎の投げた槍は、卜全の右の二の腕に「グサリ」と突き刺さり、血しぶきが飛ぶ。「やられた」。どうにもならない痛みをそれでも食いしばり、卜全は左手で右腕に刺さった槍を抜きますが、ドクドクドクと流れる血は止まりません。
 さて、これをやや離れた小高い丘の上から見ていた浅井政澄に、亀山大八郎が駆け寄ります。「やりました、政澄様。これで卜全は死んだも同然です」。しかし何を思ったか、政澄は腰から太刀を抜き、「この卑怯者めが」と一喝すると、腰から抜いた刀を横に振りかざす。大八郎の首が地べたにコロリと落ちる。「槍は手でもって相手を突いてこその武具じゃ。『何事も投げやりはいけない』と学校の先生から教わっただろう」、こんなこと言ったかどうかは分かりませんが。
 さて、政澄の兵が手にしていた槍が一本地面に転がっている。またまた何を思ったのか、政澄はこの槍を拾いあげると、根元の方からボキリと折る。そしてやにわに自身の右の二の腕にブスリとその槍を突き刺す。突き刺した箇所からは、真っ赤な鮮血がドクドクドク、間断なく流れ落ちます。
 これだけの出血です。尋常な者ならまず間違いなく失神しているでしょうが、さすがは何度も修羅場を生き抜いてきた兵(つわもの)の戦国武将。蚊に刺されたというような顔も見せません。
●政澄「これでもはや私の右腕も使えん。勝負は五分と五分だ。卜全殿。参りますぞ」
 
 馬に乗った政澄は、卜全の元へと駆け寄ります。
 卜全、政澄、両者とも左手だけで槍を持ち一騎打ちになる。二人とも槍の腕前は『超』が付くほどの一流です。たとえ左腕一本でもその技量はまったくと言っていいほど衰えません。右を狙えば相手はヒラリと左に避(よ)ける。左を狙えば右に避ける。どちらにも避けられなければ自らの槍でもって相手の槍を刎(は)ねかえす。前後左右、さらに上に下にと自在に身体を動かして、相手に向かって槍を突く。または相手の槍をかわす。なかなか勝負が付かない。槍の腕前に関してはまったくの互角だが、持久力については齢(よわい)すでに60にして百選錬磨の卜全の方がほんの少しだけ上回っていた。まだ若造の政澄がわずかに息を乱し、卜全の槍をかわす間合いをほんの少しだけ見誤る。それを卜全は見逃さなかった。すかさず槍を突く。卜全の突き出した槍は政澄の喉元を見事に突き刺す。「参ったぁ」、政澄は苦し気に声を振り絞ると馬から「バタリ」と落下し、息絶えました。

 この姉川の戦いは織田方の勝利で終わりまして、浅井長政の受けた被害は甚大でした。政澄を始めとして歴々たる武将の多くを失います。犠牲者の数は千をはるかに上回り、姉川は血の色に染まったといいます。それからも浅井は、越前・朝倉氏あるいは比叡山延暦寺と連携しながらしばらく命脈を保ちますが、3年後の天正元年、難攻不落であると言われた拠点の小谷(おだり)城を、織田の軍勢による猛攻撃を受け、ここに名門・浅井家は滅亡します。

 氏家卜全は近江国・貴生川(きぶかわ)に3千石の所領を与えられます。屋敷の庭の傍らには、浅井清澄のために小さな祠を建立しました。祠には清澄が自らの右腕を突いたあの槍先が納められています。卜全は敵でありながら、公明正大を貫いたこの武将、浅井清澄への敬意を忘れることなく、一日も欠かさずこの祠を参拝したと言います。姉川の戦いの6年後、天正4年に氏家卜全は病気で亡くなりました。この年は、天下統一に向けて昇竜の勢いで勢力を拡大する織田信長が、安土城を築城した年であります。卜全は死ぬまで信長に尽くしながら、この絢爛豪華たる城をついに見ることはありませんでした。

 現在でいうならばフェアプレイの精神を戦国の世に見せた、戦(いくさ)に負けながらも浅井政澄の戦いぶりは誠にアッパレでありました、「姉川片腕の決戦」という一席でございます。





『講談るうむ』管理人オリジナル
 著作権フリー(2022-7-30)

講談るうむ
http://koudanfan.web.fc2.com/index.html
inserted by FC2 system