涌谷の金(わくやのきん)

『講談るうむ』管理人




 奈良時代の話、天平15年といいますから西暦で言いますと743年、教科書でも習った通り、聖武天皇は「廬舎那大仏造立詔(るしゃなだいぶつぞうりゅうのみことのり)」を発布します。高さ5丈3尺5寸、つまりは16mもある大きな大きな仏像を建立するというとてつもない計画です。16mと言いますと、オフィスビル4階建てくらいの大きさですから今からしても相当なものです。大仏様の本体は良く知られたとおり銅なのですが、建立した当初は表面はキンピカ、つまり金メッキを身体中に施してあった。現代の我々からみれば、仏様の像は銅像でも木像でも茶のくすんだ色がお馴染み、大仏様も銅の渋い、深みのある落ち着いた色の方がいい、金ピカなんてかえって趣味が悪いということもあるかも知れませんが、当時の人はやはり永遠の輝き、金の色を望んだのでしょうか。
 この大仏の造立が開始されたのが、その2年後、天平17年なのですが、当時日本では金は採掘されていなかった。発見もされていなかった。もちろん、これほど大量の金を輸入するなんということも、当時の航海技術では叶わなかったし資金もなかった。調達する手立てもなかったのに、金を使うことだけは決まっていたなんてなんとも無計画なと言う話に現在ならなりましょうが。
 こんな訳でして朝廷の命令により、国内で金の産出する場所を探しに、全国各地に10人の僧侶が派遣されることになりました。そのうちのひとり常伝(じょうでん)は、平城京の等克寺(とうかつじ)の若い僧侶、今年29歳になりまして、最も北の地である陸奥(むつ)の国を担当することになります。道案内の役として吉志(きちじ)、白岩(はくがん)というという2人のお供を連れて行きますが、吉志は下野(しもつけ)の那須野で、白岩は岩代(いわしろ)の安積(あさか)で相次いで客死(かくし)してしまう。平城京に戻ろうにも、すでにもう何百里も離れている。一刻も早く金の産出地を探したい。そんな使命に燃えている常伝は陸奥(みちのく)の地を一人旅します。「みちのくひとり旅」ってこれを言いたかった、そんなことはありませんが。
 この頃の東北地方というと、まだ畿内(きない)の政権の力が完全には及んでいません。蝦夷(えみし)という敵対する勢力も多数いる。そこで常伝がやって来たのが、飯坂の湯です。東北地方といえば、ここかしこに温泉がありますが、飯坂は奥州三名湯のひとつ、福島の奥座敷とも言われる、一説によりますと2世紀からあるという古代からの温泉地です。ここならば奥州のあちこちから人が集まってくる。諸地域の情報が得られるであろうと、常伝は考えたわけです。
 常伝は温泉地内の共同浴場の中に入る。飯坂温泉の共同浴場というと鯖湖湯(さばこゆ)が今でも有名ですが、この「さばこ」と名付けたのはかの西行法師です。西行は平安時代末期の人物ですから、この話の400年あまり後のこととなります。湯に浸かっている常伝に、一人の商人風の男が声を掛けます。

●「あー、いい湯だ……。(横を見て)おや、お坊様、手の甲にアザがありますね」
▲常伝「ああ、この右手の甲のアザか。親の話だと産まれたときにはすでにあったとのことだが、このことで何か」
●「お坊様のアザは炎(ほのお)の形をしてますね。このアザの形は珍しい。実は私の倅にもアザがあったのです。左手に四角の形をしたアザがありました」
▲常伝「“ありました”ということは、今はアザは消えたのかいな」
●「いえ、倅ごと消えた、いなくなってしまったのです。もう5年も前ですか。私はここから5里ほど離れた船岡(ふなおか)という場所に住んでいまして、女房とともに小さな商いをしていました。「久丸(ひさしまる)」という倅もいたのですが、2歳の時に忽然と消えまして」
▲常伝「忽然と消えた…。よかったら詳しく話してくれないかな」
●「はい、5年前のことです。婚礼の祝いがありまして、女房と倅とともに親類の家を訪れておりました。その帰り道、倅がウンウン苦しみだして、聞いてみると腹が痛くてどうしようもないという。どうしようかと夫婦オロオロしていると、一人の男が現れました。『近くにいい医者を知っている。いますぐこの子を連れて行くから、あなたと女将さんはこの木の下で待っていてくれ』と言う。それで倅をその男に預け、大きな木の傍らで待っていたがいつまで経ってもその男は戻って来ない。地元の者に尋ねると、この近くには医者などないと言う。それからあっちこっち探したのですがなしのつぶてで…」
▲常伝「人さらいか。それはお気の毒に。ワシは大和の国から来た僧侶でな。湯からあがってゆっくり話そうではないか」。

 共同浴場から出た2人は飯屋にはいり、いろいろ語り合います。常伝に話し掛けてきた男、名を志朗(しろう)と申します。先ほど申しました通り、ここから北に5里ほど離れた船岡という場所で小商いをしており、商売はそこそこ繁盛しています。疲れがたまった時など、時折飯坂の湯へと足を延ばし身体を休めます。その志朗に今度は常伝が語り掛けます。

▲常伝「私は平城(なら)の都から来た僧侶でな、常伝という」
●志朗「この陸奥の国にはなぜお出でになったのですか」
▲常伝「聖武天皇がこの度、5丈を上回るという大きな仏像を建立する、その大仏様の表面に金を施す、その金を探しに来たのだ。しかし陸奥の国の広さは、大和の国の何十倍もあるという。どこをどう訪れればよいのだか、見当もつかなくて。しかし今回の大仏建立は仏の教えを広げるためにはなんとしても必要なことなのだ」
●志朗「この奥州には、仏の教えというのは良く伝わっていません。それほど有り難いものなのですか」
▲常伝「この世で最も有り難い物といっていいな。今までの我が国の神信心というと、ご利益があるから敬え、祟りがあるから恐れよ、そればかりだった。それとは違って、この世にある様々な苦しみから衆生を救うというのが仏の教えだ。その救いの手は貴き方にも賤しき者にも同じ、富める者にも貧しき者にも同じ。無限の優しさが仏の教えだ。この陸奥の地では、長いこと蝦夷(えみし)との戦いが続いているが、蝦夷にも仏の教えが広まれば、両者が穏やかに暮らせることであろう」
●志朗「あんな野蛮な奴らにも仏の教えは伝わりますか」
▲常伝「必ず伝わる。仏の教えが広まればどんな戦でも収まる。平和な世が訪れる、仏の広大無辺の力を示すためにも、大仏の建立は必要なのだ」
●志朗「私のようなものでも、仏の教えは理解できますでしょうか」
▲常伝「もちろん。実は私もお前と同じ、元は商人の倅でな。16歳の時に7日間ほど高熱を出して床に臥せったことがあった。その時に寺の住職のご祈祷でその病気を治してもらった。その住職からどうしても仏門に入るようにと説得されてな」
●志朗「どうしてあなたを」
▲常伝「どうしてなのかは良く分からない。いや、実はワシには将来を誓い合った女がいたのだが、ちょうどその熱を出した時、その女がとつぜん私と別れると言い出し、別の商人と結婚することになってな。それでヤケになっていたのかもしれない」
●志朗「たったそれだけの理由で」
▲常伝「まあ、きっかけは邪(よこしま)だったかもしれないが、仏の道を懸命に学んで、修行にも励んだ。今では仏の教えも十分に分かっているつもりだ。今回の金を探す役目、これは天命だと思っている。ところで先ほどの金の話だが。陸奥の国で、キラキラ輝く金が砂の中に混じっている、そんな話は聞いたことはないか」
●志朗「そういえば…。ここから30里ほど北に石巻という小さな港町があります。商いで石巻へ行ったことがあるのですが、そこから何里か離れたところで、キラキラ光る粒が、川の砂の中に混じっている場所がある、そんな話を聞いたことがあります」
▲常伝「それは金かもしれないな。ぜひその場所へ行ってみよう。案内をしてもらえるか」
●志朗「承知しました」

 これから2人、飯坂の湯を旅立ち、阿武隈川を下り、途中、船岡へ立ち寄りまして志朗は女房に、都から来たお坊様と一緒に石巻まで行ってくると告げます。阿武隈川は岩沼という所で海に注ぎ、その少し北に仙台という小さな村があります。さらにその先、陸奥の国の国府である多賀城があり、少し行って塩竃の明神があり、ここから船に乗りますと、松島という、ここは世にも稀な絶景の地です。5里ばかり行くと石巻という町があって、ここは南部の原から流れる北上川の河口にある港です。
 道中何事もなく、常伝と志朗の2人は、飯坂の湯から30里ほど北の石巻までたどり着きます。まもなく石巻の集落へ入るとというところで、大慌ての様子で一人の子供が駆け寄ってきます。
□「おじさん、よっちゃんが沼にはまって溺れているんだ、助けておくれ」
 2人が駆け付けますと、泥沼の中ほどで、一人の8歳くらいの男の子がもがいて、助けを求めています。その助けを求める声もだんだん小さくなる。
▲常伝「すぐ助けるから、待ってっておくれ」
常伝は着ていた服をさっと脱ぎ、泥沼の中に飛び込みます。もとより泳ぎが達者な常伝は、すぐにこの子供を助け上げます。泥水をかなり飲んでしまいゲホゲホしているものの、命に別条はないよう。常伝は子供を負ぶって石巻の集落に入り、案内されて子供の住む家まで来ます。商人とみえる夫婦が出てきました。
□「おばちゃん、町はずれので沼で遊んでいて、よっちゃんが溺れたの。それをこのお坊様に助けてもらったの」
◇「まあまあ、どうもどうも、お坊様、有難うございます。なんとお礼を申したらよいか……。あの沼で遊んじゃダメといつもいつも言っているでしょう……。お坊様、すぐにタライを用意します。お身体をお洗いいたしますのでこちらへ」
 裏庭には井戸があり、頭の上から井戸水を掛けて、常伝の身体の泥水を洗い流します。女房は身体をすすぎながら、常伝に話し掛けます。
◇「お坊様はどちらからいらしたのですか」
▲常伝「平城(なら)の都からです」
◇「平城の都から…。私たち夫婦も平城の都の出身なのですよ。夫が『これからは蝦夷(えみし)との交易が盛んになる。北の地の珍しい物品を売れば大儲けできる』と申しまして、こんな辺鄙な所へやってきましたが。蝦夷相手の商売は大変です。本当に仲良くできるのはまだまだ先のことになりそうです。夫婦に子供1人、食べるのに困らないほど、なんとか暮らしていますが……。おや、その手の甲のアザ……」
 女房が常伝の右手のアザに気付き、常伝の顔をジッと見ます。
◇「あなたは文太様ではございませんか」
▲常伝「そうだ、文太だが。今は仏道に入って常伝と名を変えているのだが」
◇妙「お懐かしゅうございます。妙(たえ)でございます……。お互いすっかり変わってしまいました…。こんな場所ではなんです。身体をお拭きいたしますので、家の中でゆっくり話しましょう」
 女房の妙は常伝の身体を拭き、服を着させ、家の中の囲炉裏に当てさせます。
▲常伝「妙か……平城京の都で別れたのは、十何年も昔のことだったか。私たちは平城京の都に住む、近所の者どおしで夫婦約束をしたもの同士だった……。それが突然お前は私と別れると言ってきた、なぜ、私と別れたのか、その訳を聞いていなかった。もう随分と昔のことだが、ここでその理由を聞かせてくれないか」
◇妙「はい…。あなた様が、高熱を出し7日間の間ウンウンうなされる。等克寺の住職にご祈祷をお願いしたことがありましたね」
▲常伝「ああ、あった」
◇妙「ご祈祷が仏に通じあなたの熱は無事に下がった。その時住職はおっしゃったのです。『この者の右の手の甲には炎の形のアザがある。仏の教えによると、この世の中を形づくっているのは五大(ごだい)、すなわち地・水・火・風・空(ち・すい・か・ふう・くう)である。この男の右手にある炎の形のアザはそのうちの「火(か)」つまり「ひ」だ。この者はこの国に仏の教えを広めるのに必要な男となるであろう。我が寺に出家させて、仏門に入れるがよい』。こう仰る。しかし仏門に入ると妻は娶れない、私の父も仏法に帰依し信心ぶかい人でした。住職の言う通り、あなた様は仏門に入るべきだ、私にあなたとはもう会うなと父は迫るのです。それであなた様と泣く泣く別れることにしました。それからすぐ後、別の商人と結婚し、それから東(あずま)の果てのこの地で商売をし、今は幸せに暮らしております」
▲常伝「そうであったか…」
 2人語り込んでおりますと、
☆「好介(よしすけ)の身体を洗ってやったぞ
 妙の夫、文蔵が、溺れた子供の身体を井戸の水で洗い流し、家の中へと入ってまいりました。常伝が見ると、この子供の左手の甲には四角い形のアザがある。
▲常伝「おや、この左の手のアザ。志朗さん、ひょっとして…。この子の歳はいくつかな」
☆文蔵「8歳くらい、だと思いますが」
▲常伝「すまぬが、この子のことについて教えてくれないかね」
☆文蔵「この子は私どもの実の子ではないのです。5年前のことです。一人の男が現れまして、塩竃の神社で親にはぐれて一人きりになってしまった子供がいる。5貫の金でもらい受けないかと話を持ち掛けられました」
▲常伝「この子は、ここにいる志朗さんの倅で間違いない。この四角形のアザがその証拠だ」

 志朗は2歳の時に生き別れになった息子の久丸(ひさしまる)と再会します。一方、常伝はかつて夫婦約束をした妙と再会する。2つの再会が、今ここで同時になされる。これも仏の導きといいますか。

▲常伝「私の右手には炎の形をしたアザがあり、この子の手には四角いアザがある。これも偶然だろうか」
☆文蔵「お坊様はどうしてこの石巻の地にいらしたので」
▲常伝「いや、平城(なら)の都に5丈以上もある大きな仏像を建立することになって、そこで仏像に施す金が必要なのだ。川の砂の中にキラキラ光る粒が混じっている、そんな場所はこの辺にないかな」
☆文蔵「そういえば、ここから5里ほど離れたところに、『火の谷』、『地の谷』という2つの谷がございます。『火の谷』は毎年のように山火事が発生する山から水が流れ込んでくる谷、『地の谷』はまるで地の底から水が湧き出ているような箇所がありましてそこから続く谷です。この2つの谷が合わさる所に、そのような川砂の中にキラキラ光る粒が混じっている箇所があると聞いたことがこざいます」
▲常伝「『火の谷』に『地の谷』…。そうか、私の手のアザは「火」。この子の手のアザは「地」。これも仏のお導きであったか…。ではすぐにその『火の谷』『地の谷』に参ろう」

 地元の人間を引き連れ、『火の谷』『地の谷』の合流点まで参りますと、確かに川の砂に混じってキラキラと光る粒が、ここかしこにありまして、これが金であることが分かりました。「金発見」、すぐにこの知らせは平城の都へと伝えられます。時ならぬゴールドラッシュになりこの地に日本国中から鉱夫がそれこそ「沸く」ように集まります。それからこの地を「涌谷(わくや)」と呼ぶようになります。
 東大寺盧舎那(るしゃな)仏像は天平勝宝(てんぴょうしょうほう)4年、西暦でいうと752年の4月9日、大仏開眼供養会(くようえ)が盛大に催されます。参列者は1万数千人に及び、遠く中国やインドからも僧侶が招かれました。実はこの時、大仏様はキンピカではなく、体中に鍍金(ときん)を施されたのはもう数年後のことになります。
 さて、2歳の時に生き別れになった子と再会した志朗ですが、「産みの親より育ての親」。すでに子供は8歳に成長していますので、この石巻の地で夫婦と一緒に過ごした方が良かろうと、そのまま育てて貰うことにしました。変わって同じ石巻で、産まれたばかりで両親を亡くした赤ん坊をもらい受け、志朗夫婦が船岡の地で育てることにします。
 金発見の最大の功労者である常伝ですが、なぜかその後出世するということも無く、平城の都の等克寺を継ぎ、50歳で亡くなるまで仏の道に仕えながら静かに暮らしたということです。時たま右手の甲のアザを見ながら、奥州で出会った人たちのことを思い返したと言います。

「涌谷の金」という一席、これで読み終わりといたします。





『講談るうむ』管理人オリジナル
 著作権フリー(2022-07-30)

講談るうむ
http://koudanfan.web.fc2.com/index.html
inserted by FC2 system