三方ヶ原軍記・台本書き起こし|『講談るうむ』トップページへ戻る メールはこちら |

講談『三方ヶ原軍記〜内藤の物見』

十二代目田辺南鶴

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 『三方ヶ原の戦い』は元亀3年(1572年)に起こった武田信玄の軍と徳川家康の軍との戦い。織田信長撃退のため京へと向かう武田軍を、織田と同盟を結ぶ徳川軍が遠州三方ヶ原(現在の浜松市付近)で迎え撃つ。この時、家康は血気盛んな若輩でまだ31歳、対して信玄は百戦錬磨を重ねた52歳。家康軍は大敗を喫し「家康最大の負け戦」ともいわれる。一方で信玄も死期が近づいていた…。
 講談でいう「修羅場(しゅらば、ひらば、しらば)」は軍談における合戦の部分で、高調子で勢いよく滔々と読み込む。この「修羅場読み」は講談を大きな声でリズミカルに読むための基礎といわれ、なかでも『三方ヶ原軍記』は基本中の基本の演目であり、前座にとっては必須のものである。難解な言葉が多用され、さらに人名・地名などの固有名詞がやたらと出てきて、かなり講談を聴き込んでいる人でも内容を完全に把握するのは難しい。しかし内容がある程度分かるようになれば、美しい語調とともにこの「修羅場」も楽しめるようになるであろう。
 ここに掲載する『三方ヶ原軍記〜内藤の物見』はその初めに当たり、多くの新入り講談師はこの部分の習練から稽古を始める。また流派によって異なる箇所も多い。


(一段目)

 そもそも三方ヶ原みかたがはらたたかいは、ころ元亀三年げんきさんねん壬申歳みずのえさるどし十月十四日、甲陽こうよう武田大僧正信玄たけだだいそうじょうしんげん甲府こうふおい七重ななえのならしをととのえ、そのせい三万余騎さんまんよきを従え、甲州こうしゅう花形はながた雷発らいはつなし、遠州えんしゅう周智郡すちごおり犬居いぬい城主じょうしゅ天野官内左衛門あまのくないざえもん並びに芦田あした下野守しもつけのかみ両人りょうにん案内者あんないじゃとして、まず山懸三郎兵衛昌景やまがたさぶろうびょうえまさかげ五千余人ごせんよにんをさし添え、遠州えんしゅう飯田いいだ多々羅たたら両城りょうじょうおとし、その勢いにじょうじて兵を進め、徳川家とくがわけ御味方おみかたなる久能くのう城主久野くの三郎右衛門さぶろうえもんのたてこもったる久能城くのうじょうを攻め立てたるところが、久野三郎右衛門宗茂くのさぶろうえもんむねしげ豪勇ごうゆうにして要心ようじん厳重げんじゅうなればなかなか落城らくじょういたしがたく、よって押さえの兵を残しおき、それより在々所々ざいざいしょしょ乱暴らんぼうなし、民家町家みんかちょうかを焼き立て、山名郡やまなごおり木原きはら西島にしじま袋井繩手ふくろいなわて姫子山ひめこやまのふもとまで連綿れんめん堂々としてたむろを張る。されば遠三えんざんへの使者ししゃ早馬はやうまはあたかもくしの歯をごとく、ここにおい浜松はままつ御城中ごじょうちゅうにては、神君しんくん諸士しょしを集めて軍議評定ぐんぎひょうじょうに及ばれました。この時酒井、石川、大久保ら進みで、言葉をそろえ「おそれながら主君きみご出馬のはおとどまりあらせられ尾州びしゅう織田家おだけ御加勢ごかせいをお頼みにあいなり、その上にて御籠城ごろうじょうしかるべくぞんたてまつる」と言上ごんじょうしました。この折神君しんくん憤然ふんぜんとおいかりあり「ヤアヤア甲斐がいなき者どもかな、我が領分りょうぶんてき乱暴らんぼうされ、なんぞや闇々やみやみ籠城ろうじょういたさるべきや。領主りょうしゅたる者はたみと共に苦しみ、しゅうと共に楽しむが天理てんりなり。臆病者おくびょうもの籠城ろうじょうせよ、心ある者は我がともせよ」とおおせられハヤ席を蹴立けりたてて立上たちあがりたまい、ものつけご玄関げんかんより駈出かけいだたもうて大音だいおんげ「舎人とねりけッ/\」とご下知げぢあり。とねり別当べっとう御乗馬ごじょうめをひき参ると、きみくら山形やまがたへお手をかけ、ヒラリとまたがりたまい、一騎駈いっきがけに乗出のりだたもう。その日の御扮装おんいでたちしゅのタクボクの御鎧おんよろいきんにて鍬形くわがた打ったる前立まえだてに、きん六十四間ろくじゅうしけん白星しらぼし御兜おんかぶと白檀びゃくだんみがき赤鋼造しゃくどうづくりの籠手脛当こてすねあて貞宗さだむね御剣ぎょけん藤四郎吉光とうしろうよしみつ短刀たんとうび、朝霞あさがすみと名づけたる駿足しゅんそく金覆輪きんぷくりんくらおいて、金唐草きんからくさ押当おしあて紅白紫こうはくむらさき三段さんだん厚房あつぶさをかけ、唐草象眼からくさぞうがん伊達鐙だてあぶみ七五三綴目しちごさんとじめむちをあげたまい、ひら一散いっさん乗出のりだたもう。あとに続く人々は、大久保七郎右衛門忠世おおくぼしちろうえもんただよ、同じく作右衛門忠佐さくえもんただすけ本多平八郎忠勝ほんだへいはちろうただかつ内藤三左衛門信成ないとうさんざえもんのぶなり平岩七之助親吉ひらいわしちのすけちかよしをはじめ、そのせい一万三百人、みにんで進発しんぱつなし、大天竜だいてんりゅう小天竜こてんりゅうをうち渡る。敵は甲州勢こうしゅうぜい。しかも大軍たいぐんもって攻めきたるに、われはただ一万の小勢こぜいを以て立向たちむかうは、如何いかにも無謀むぼうにして暴虎馮河ぼうこひょうかに似たれども、神君しんくん思召おぼしめしにては、信玄しんげん大軍たいぐんにて出張しゅっちょうに及ぶをかく小勢こぜいにては勿論もちろんかないがたけれど、さきんずれば人をせいし、おくるれば人にせいせらる。大軍たいぐん恐怖きょうふをなし猶予ゆうよあってはいよいよ信玄しんげん勢いにじょうじ、味方みかたは弱みを増す道理どうり、さればてきに弱みを見せまじ、また味方みかたはげまさんとの御出馬ごしゅつばであります。



(二段目)

 しかるに内藤三左衛門信成ないとうさんざえもんのぶなり御馬前ごばぜんに進みで「主君きみ大物見おおものみとしての御出馬ごしゅつばとは申しながら、信玄しんげん大軍たいぐんをひきいての出陣しゅつじんなり、お味方みかたあま小勢こぜいなり、しばらくここにそなえを立て、あとせいの続くをおん待ちあってしかるべし。それがし、むかって敵陣てきじん様子ようす見届みとどけ、御注進ごちゅうしんつかまつるべし」ともうぐる。「オオ、しからばなんじ見届みとどけ立ち帰れよ」とのおおせ、信成のぶなりかしこまって乗出のりいだす。その日の扮装いでたちを見てあれば、萌黄糸縅もえぎいとおどし大鎧おおよろいおんな毛糸五枚綴けいとごまいしころかぶとには、さがふじ前立まえだて八幡座はちまんざより白熊はぐまの毛さっとふり乱したるを猪首いくびにきなし、猩々緋しょうじょうひ白糸しろいともっふじもんわせたる陣羽織じんばおり着用ちゃくようなし、三尺二寸さんじゃくにすん陣刀じんとうたいし、こう霜降しもふりをもってぎたる矢は森のごとくに背負しょいなし、斑重籐むろしげとうの弓をたずさえ、連銭葦毛れんせんあしげ叢雲むらくもと名づけたる八寸やきあま駿足しゅんそくに、銀覆輪ぎんぷくりんくらを置き、紅白こうはくだんだらぞめ手網たづなをかいり、平一散ひらいっさんに乗りいだす。ところにしおう袋井縄手ふくろいなわて、折しも吹きくる向い風に、かぶと天辺てっぺんよりふり乱したる白熊はぐまの毛は、サワサワサワと逆立さかだちて、威風一段いふういちだんたちまさり、鬼か人かと思うばかりなり。そのうちに早くも見附台みつけだい一言坂ひとことざかいただきに、馬の四足しそくを踏みとどめ、真額まびたい小手こてをかざして見渡みわたしたり。一体いったい物見ものみほうというものは、なるたけ見えがくれにして敵前てきぜん七十五間内しちじゅうごけんないへは乗込のりこまざるものなり。なれども信玄しんげんそなえは、姫子山ひめこやまのふもとより袋井縄手ふくろいなわての山をいたるそなえなれば、容易ようい見切みきれざるゆえ、って三左衛門さんざえもんトクと見定みさだむるにはほうになきこととは言えども、是非ぜひなく前陣ぜんじん近くへ進みたり。されば陣営じんえい見透みすかされてはならずと、先手さきて大将たいしょう山懸三郎兵衛昌景やまがたさぶろうびょうえまさかげ下知げちに及んで鉄砲てっぽう五百挺ごひゃくちょう銃口つつぐちそろえてダダダダダダダダダダと撃払うちはらう。これは三左衛門さんざえもんつにはあらず、陣中じんちゅう見透みすかされざるためなり。この物音ものおとおどろいたか、乗ったる馬ヒヒーンといななきてせいだしたり。されば三左衛門さんざえもんこれをしずめんとして、思わず知らず七十五間しちじゅうごけんのうちへ、十間じゅっけんばかり乗込のりこんだり。鞍笠くらがさ立上たちあがり、小手こてをかざして小高こだかところへと馬を乗り上げ見おろせば、三千一組さんぜんひとくみ二千一組にせんひとくみあるいは千人八百人せんにんはっぴゃくにん五百三百ごひゃくさんびゃくここかしこ、八方四面はっぽうしめんたむろなして、そのせいおよそ三四万さんしまん魚鱗ぎょりん鶴翼かくよく長蛇形ちょうじゃがた円月えんげつ雁行がんぎょう一文字いちもんじ真丸まんまる一行いちぎょう丸手形まるてがた、もがりおどしに鉾矢形ほこやがたあるいは八門遁甲はちもんとんこうと、そなえかためし有様ありさまは、かぶとの星をかがやかし、よろい大袖おおそで小袖こそでをゆり合せ、得物得物えものえものかざり立て、みなはなやかに扮装いでたちたるは、黄糸きいと赤糸あかいと紺糸こんいと黒糸縅くろいとおどし天人胴てんにんどう桶皮胴おけがわどう萌黄糸もえぎいと紅白こうはく市松いちまつ洗皮あらいがわはな緋縅ひおどし小桜こざくらと、よろい毛糸けいと数を限りとさだめなく、定紋じょうもん打ったるはたの手は、みな空中くうちゅうひるがえり、さてさきに見えたるは、赤地あかじきんもっ正八幡しょうはちまん大武神だいぶじんと書いたるはた赤地あかじに白の桔梗ききょうもん付きたるはたぎん二股大根ふたまただいこん狸々緋しょうじょうひ一段幡連いちだんばれん馬印うまじるし押立おしたて、雑兵ぞうひょうにいたるまでみな茜色あかねいろ陣羽織じんばおり一着いっちゃくなし、鶴翼かくよくそなえ、そのせい三千余人さんぜんよにん、これ甲陽こうよう名代なだい赤備あかぞなえ山懸三郎兵衛昌景やまがたさぶろうびょうえまさかげなり。それより右手みぎてかた少少しょうしょう離れて、白地しろじ大山道おおやまみち段々染だんだらぞめはたぎん十六葉枝菊じゅうろくようえだぎく金短冊きんたんざく十八枚じゅうはちまいついたる馬印うまじるし押立おしたて、足軽あしがる小者こものにいたるまでみな白木綿しろもめん陣羽織じんばおりちゃくなし、三千余人さんぜんよにん一隊いったい白備しろぞなえ旗下はたしたに立ったる大将たいしょう甲陽こうようにて智者ちしゃと知られたる、源三位兵庫頭頼政げんざんみひょうごのかみよりまさ未孫ばっそん信州牧野島しんしゅうまきのしま城主じょうしゅたる馬場美濃守源信房ばばみののかみみなもとののぶふさなり。その次は紺地こんじに白く石畳いしだたみはた銀輪違ぎんわちがいにしゅ一段幡連いちだんばれん馬印うまじるし小者こものいたるまでみな一様いちよう黒備くろぞなえにて、そのせい二千余人にせんよにんは、これ信玄しんげん秘蔵ひぞう勇士ゆうし二十歳はたちの時に国家こっか政治せいじつかさどり、家老かろうれつくわわりたる前名ぜんみょう金森平八郎かねもりへいはちろう当時とうじ土屋つちや家名かめいをつぎ土屋右衛門尉直村つちやうえもんのじょうなおむらとこそ知られたり。それよりあい並んで黄地きじふじの丸の大旗おおはたきん亀甲きっこう黄羅紗きらしゃ幡連ばれん馬印うまじるし押立おした総欝金そううこんそなえ同勢どうぜい二千余人にせんよにん内藤修理之介昌豊ないとうしゅりのすけまさとよ浅黄地あさぎじ六連銭りくれんせん旗一流はたひとながれ、唐人笠とうじんがさ馬印うまじるし押立おしたて、総浅黄地そうあさぎじそなえにて二千余人にせんよにんは、海野小太郎幸氏うんのこたろうゆきうじより十七代じゅうしちだい後胤こういんにて、真田源左衛門信綱さなだげんざえもんのぶつななり。これを甲陽先手こうようさきて五色備ごしきぞなえごうすなり。引続ひきつづいて浅黄地あさぎじ山形やまがたにスワマのはた、銀の菅笠すげがさ猩々緋しょうじょうひ二段幡連にだんばれん馬印うまじるしは、そのせい二千人にせんにん穴山伊豆入道梅雪あなやまいずにゅうどうばいせつなり。相備あいぞなえとして浅黄地あさぎじあしの葉のもん打ったる旗一流はたひとながれ、あしの葉に猩々緋幡連しょうじょうひばれん馬印うまじるしは、芦田下野守義綱あしたしもつけのかみよしつななり。紺地無地こんじむじはた二段鳥毛にだんとりげ馬印うまじるしは、小山田備中守信俊おやまだびちゅうのかみのぶとしなり。白地しろじ剣花菱けんはなびしはたきんのしないだけ馬印うまじるしは、武田右馬之介信豊たけだうまのすけのぶとよなり。白地しろじに黒く立花たちばなはた銀蛇籠ぎんじゃかご馬印うまじるしは、秋山伯耆守信親あきやまほうきのかみのぶちかなり。紺地こんじに赤く花菱はなびしはた金三光きんさんこう馬印うまじるしは、仁科上野守信次にしなこうずけのかみのぶつぐなり。五枚根笹ごまいねざさはた金団扇きんだんせん馬印うまじるしは、小畑山城守虎盛入道おばたやましろのかみとらもりにゅうどうなり。白地しろじ三蓋菱さんがいびしはた金二きんふた団子だんご馬印うまじるしは、小笠原信濃守政長おがさわらしなののかみまさながなり。紺地こんじに白く九曜くようの星のはた、銀の五枚柏ごまいがしわ角取紙すみとりがみ馬印うまじるしは、保科弾正忠直正ほしなだんじょうのちゅうなおまさなり。きんにてつるの丸のはた、銀の丸竜まるりゅう猩々緋しょうじょうひのブラブラの馬印うまじるしは、諏訪安芸守頼忠すわあきのかみよりただとこそ知られたり。紺地こんじに白く五三ごさんきりはた赤地あかじに黒く山道やまみち大幟半おおしはんに、きんにてまんじの馬印うまじるしは、芦田上野介教行あしたこうずけのすけのりゆきなり。水色みずいろに白く立浪たつなみはた三本薄さんぼんすすききん団子だんご馬印うまじるしは、望月石見守晴時もちづきいわみのかみはるときなり。赤地あかじ千羽鶴せんばづる大幟半おおしはん八尺はっしゃく大外輪おおそとわ南無阿弥陀仏なむあみだぶつと書いたる馬印うまじるし安中左近繁国あんなかさこんしげくになり。白地しろじ三蓋松さんがいまつはた金芭蕉きんばしょう馬印うまじるしは、三枝勘解由左衛門晴高さえぐさかげゆざえもんはるたかなり。浅黄地あさぎじ白色しろいろもんついたるはた猩々緋しょうじょうひ五段幡連ごだんばれん馬印うまじるしは、曽根下野守信久そねしもつけのかみのぶひさなり。赤地あかじ大文字だいもんじはた猩々緋しょうじょうひ銀三方面武田菱ぎんさんぼうめんたけだびし二段幡連にだんばれん馬印うまじるしは、これ中軍ちゅうぐん大将たいしょう新屋形しんやがた我朝わがちょうにて項羽こううきこえたる無双むそう勇士ゆうし武田伊奈四郎源勝頼たけだいなしろうみなもとのかつよりなり。同勢どうぜいおよそ三千余人さんぜんよにん以上いじょう前備さきぞなえとして人数にんずう一万八千余人いちまんはっせんよにんなり。



(三段目)

 後陣ごじん先鋒せんぽう大将たいしょうには、朽葉色くちはいろはた二流ふたながれ、赭熊しゃぐま大纏おおまとい押立おしたてしは甲斐かいの国にて古今ここん采配取さいはいとりと呼ばれたる、信州海津しんしゅうかいづ城主じょうしゅ高坂弾正昌信こうさかだんじょうまさのぶなり。白絹しろぎぬ武田菱たけだびしはた金三本竹刀きんざんぼんじない馬印うまじるしは、武田孫六入道逍遥軒たけだまごろくにゅうどうしょうようけんなり。水色みずいろ剣花菱けんはなびしはたきん団扇だんせん白縮緬しろちりめん吹流ふきながし付けたる馬印うまじるしは、小山田兵衛尉信重おやまだひょうえのじょうのぶしげなり。赤地あかじ六連銭りくれんせんはた、銀のおおわらび手の馬印うまじるしは、真田兵部昌輝さなだひょうぶまさてる、同じく六連銭りくれんせんはた、銀の唐人笠とうじんがさ馬印うまじるしは、真田安房守昌幸さなだあわのかみまさゆきなり。丸に引竜びきりゅうはたきん手鉾てぼこ馬印うまじるしは、原隼人正昌勝はらはいとのしょうまさかつなり。角取角すみとりかく三文字さんもんじはた、銀の銀杏いちょう馬印うまじるしは、一條右衛門太夫信盛いちじょううえもんのだゆうのぶもりなり。五枚笹ごまいざさはたしゅからかさきん短冊たんざく六十枚ろくじゅうまいついたる大馬印おおうまじるししゅ輪法車りんぽうぐるま小纏こまとい押立おしたてしは、根岸山城守信幸ねぎしやましろのかみのぶゆきなり。九曜くようの星のはた槌車つちぐるま大幟半だいしはんに、きん三俵さんびょうだわらの馬印うまじるしは、落合伊勢守虎正おちあいいせのかみとらまさなり。児手柏このてがしわはたきん蛇籠じゃかごの上に蜻蛉とんぼ馬印うまじるしは、市川和泉守信孝いちかわいずみのかみのぶたかなり。白絹しろぎぬしゅをもって熊野三社くまのさんしゃ大権現だいごんげん大筆おおふでに書いたるはた黒地くろじに白く帆掛船ほかけぶね幟半しはんに、銀の御幣ごへい馬印うまじるしは、清野常陸之介正純きよのひたちのすけまさずみなり。紺地こんじに白く丸にじょうの字のはた白紙しらかみ大幟半だいしはん運在天うんはてんにありと書いたる馬印うまじるしは、屋代安芸守信貞やしろあきのかみのぶさだなり。白絹しろぎぬ六連銭りくれんせんはた金鎧蝶きんよろいちょう猩々緋しょうじょうひ二段幡連にだんばれん馬印うまじるしは、海野常陸之介幸秀うんのひたちのすけゆきひでなり。紺地こんじに赤くたか打違ぶっちがいのはた藤巴ふじどもえ幟半しはんに、しゃりこうべの馬印うまじるしは、布施大和守晴房ふせやまとのかみはるふさなり。赤地あかじきんをもって丸にじょうの字のはた青黄赤白黒せいおうしゃくびゃっこく吹流ふきながしは、室賀出羽守昌高むろがでわのかみまさたかなり。水色みずいろ立浪たつなみはた金鍬形きんくわがた馬印うまじるしは、桂山治部少輔昌勝かつらやまじぶしょうゆうまさかつにして、以上いじょう後陣ごじんそなえなり。



(四段目)

 さてそれより信玄しんげん御本陣ごほんじんは、およそ五千人ごせんにんあい見えたり。八門遁甲はちもんとんこうそなえを立つる。かたに丸に三蓋菱さんがいびしはた押立おしたてしは跡部大炊之助あとべおおいのすけなり。丑寅うしとらかた五枚笹ごまいざさはた押立おしたててしは、小幡上総之助おばたかずのすけなり。かた三蓋菱さんがいびしはた押立おしたてしは、小笠原掃部之助時幸おがさわらかもんのすけときゆきなり。辰巳たつみかた太輪蔦ふとわづたはた押立おしたてしは、長坂長閑斎ながさかちょうかんさいなり。うまかた角切角すみきりかく三文字さんもんじはたは、一條信濃守いちじょうしなののかみなり。未申ひつじさるかた松皮菱まつかわびしはた押立おしたてしは、逸見山城守へんみやましろのかみなり。とりかた桔梗ききょうもん打ったるはたは、小田切刑部少輔おだぎりぎょうぶしょうゆうなり。戌亥いぬいかた花輪違はなわちがいのはた押立おしてたてしは、日向大蔵之助ひゅうがおおくらのすけなり。右八方みぎはっぽうそなえを立て、五百人ごひゃくねんずつ、五八四千人ごはちよんせんにんなり。その真中まんなか千人せんにん中央ちゅうおう床几しょうぎえ、前後左右ぜんごさゆうきらめわたって見えたるは、孫子そんしはた勝軍地蔵しょうぐんじぞうはた南無諏訪南宮なむすわなんぐう法性上下大明神ほっしょうじょうげだいみょうじんと書いたるはた白地しろじ武田菱たけだびし染抜そめぬいたるはたばかり七流ななながれ、そうじて旗数はたかず二十八流にじゅうはちながれなり。相並あいならんで金武田菱きんたけだびし三方見込さんぼうみこみ猩々緋しょうじょうひ幡連ばれん馬印うまじるし白地しろじきんをもって「天上天下唯我独尊てんじょうてんがゆいがどくそん」と刺繍ぬいをなしたるはた、なおまた白綸子しろりんず武田菱たけだびし銀糸ぎんしをもって刺繍ぬいをなしたるはた、そのしたに、甲斐源氏かいげんじ棟梁とうりょう弓矢ゆみや智識ちしき武田大膳太夫たけだだいぜんのだゆうけん信濃守源晴信入道しなののかみみなもとのはるのぶにゅうどう法性院殿大僧正ほっしょういんでんだいそうじょう徳永軒機山信玄大居士とくえいけんきざんしんげんだいこじその日の扮装いでたちを見てあれば、源氏八領げんじはちりょうのうち甲斐源氏かいげんじより伝わりたる、武田家重代たけだけじゅうだい盾無たてな赤銅しゃくどうよろいの上には、え立つばかりのころもちゃくし、金襴五条きんらんごじょう袈裟けさをかけ、諏訪法性すわほっしょうかぶといただき、こしには新羅三郎義光しんらさぶろうよしみつより相伝そうでん三尺八寸さんじゃくはっすん五郎入道正宗ごろうにゅうどうまさむね銘刀めいとう黄金造おうごんづくりにてとらかわ尻鞘しりざやをかけ、また差添さしぞえ彦四郎貞宗ひこしろうさだむねたいし、手には水晶すいしょう念珠ねんじゅ爪繰つまぐり、右手めて南蛮鉄なんばんてつ軍配ぐんばいおもてには金象眼きんぞうがんもて七曜九曜しちようくよう二十八宿にじゅうはっしゅくを入れ、うらには銀象眼ぎんぞうがんにて「疾如風はやきことかぜのごとく静如林しずかなることはやしのごとく侵掠如火おかしかすむることひのごとく不動如山うごかざることやまのごとし」と梵字ぼんじこくしたるをたずさえ、十方じゅっぽうり、あたりをはらってひかえ、金亀甲形きんきっこうがたよろいを立て、左右二行さゆうにぎょう合図あいずはた守護しゅごはた証拠しょうこはた山嵐やまあらし翩翻へんぽんとひるがえり、堂々どうどう陣取じんどったり。なおまた本陣ほんじんよりうしろかた三町さんちょうばかりさがり、しまぞなえあい見え、白地しろじ笹竜胆ささりんどうはた総白そうじろ五段吹貫ごだんふきぬき馬印うまじるしは、多田淡路守信義ただあわじのかみのぶよし千五百人せんごひゃくにんなり。



(五段目)

 前後ぜんご本陣ほんじんしまぞなえとして、総軍そうぐんがっして三万五千人さんまんごせんにん先陣後陣せんじんごじん長蛇ちょうだにわだかまりにつらなり、本陣ほんじん八門遁甲はちもんとんこう陣取じんどり、しまぞなえ鶴翼かくよくそなえにて、前後左右ぜんごさゆう二十四町にじゅうよんちょう四方しほう隙間すきまもなくたむろなし、さきにつき並べたるたていたにみな目印めじるし定紋じょうもんは、桔梗ききょう枝菊えだぎくふじまる石畳いしだたみあし五枚笹ごまいざさ源氏車げんじぐるま三蓋菱さんがいびし九菱くびし九曜くようつるまる立浪たつなみともえ三蓋松さんがいまつ牡丹ぼたん、かたばみ、抱茗荷だきみょうが中黒なかぐろ八重桔梗やえぎきょうかさおうぎがしわまるじょう剣花菱けんはなびし矢筈やはず沢瀉おもだか花車はなぐるま輪法りんぽう唐花からはな立花たちばなどもえ手車てぐるまたか引竜びきりゅう児手柏このてがしわふたびきじゃ輪違わちがい五三ごさんきり洲浜すはま雁金かりがねうろこ揚羽あげはちょう杏葉ぎょよう牡丹ぼたん帆掛船ほかけぶね一輪桜いちりんざくら抱柏だきがしわ御幣ぎょへい釘抜くぎぬき鎧蝶よろいちょう笹竜胆ささりんどう武田菱たけだびし、いずれも朝日あさひにきらきらかがやわたり、よろい大袖小袖おおそでこそでをゆりあわせ、かぶとの星をかがやかし、弓鉄砲ゆみでっぽう天魔鬼神てんまきじんおどろかしめ、さやをかけて突並つきならべたる槍薙刀やりなぎなたは、秋の尾花おばなに異ならず。金銀幡連きんぎんばれん馬印うまじるしは、白絹しろぎぬ緋羅紗ひらしゃ猩々緋しょうじょうひ紅白縮緬こうはくちりめん母衣吹貫ほろふきぬけ幟半幟しはんのぼり旗指物はたさしものあらしになびかすその有様ありさまは、吉野竜田よしのたつの花紅葉はなもみじを、一度いちどにドットながむるごとくなり。それより半町はんちょうばかり離れて、くれないうろこはた三流みなが押立おしたて、きんうろこ猩々緋しょうじょうひ幡連ばれん馬印うまじるし押立おしたてしは、相州そうしゅう足柄郡あしがらごおり小田原おだわら北條家ほうじょうけより加勢かせい大将たいしょう近藤出羽守政長こんどうでわのかみまさなが、並びに清水太郎左衛門政次しみずたろうざえもんまさつぐ三干余人さんぜんよにんなり。



(六段目)

 さて内藤三左衛門信成ないとうさんざえもんのぶなりは、とく見届みとど静静しずしずと馬のかしら引返ひきかえし、トウトウと乗返のりかえす。このおり甲陽こうよう先手ききて大将たいしょう山懸三郎兵衛昌景やまがたさぶろうびょうえまさかげ、このていを見ておおいにいか大音だいおんげ「ヤアヤア、あれへ参るはまさしく三河武者みかわむしゃ物見ものみ見受みうけたり。七十五間しちじゅうごけんうちへ馬を乗入のりいれしは人もなげなる振舞ふるまいかな。それ討取うちとれ」と采配さいはい振切ふりき下知げちなせば、甲州勢こうしゅうぜい得物得物えものえもの引提ひっさげて、にがすなやるなとグル/\/\/\三左衛門信成さんざえもんのぶなりをおっ取巻とりまいたり。信成のぶなりは少しもおどろかず、近づく敵を尻目しりめにかけ、矢頃近やごろぢかくなりたる折、馬の力皮ちからがわにつけたるゆみおっ取直とりなおし、えびらに差したる取出とりだし、キリ/\/\と満月まんげつごと引絞ひきしぼりヒョウフッツと切って放せば、真先まっさきに進んだる武者むしゃ一人いちにん真向まっこう見事みごと射抜いぬいたり。なおも続いて来るをにて、一二いちにいたより母衣付ほろつまで、ものの見事みごと射抜いぬいたり。されども内藤ないとう只一人ただいちにんなればあなどりて、無二無三むにむさんに追いきたる。信成のぶなり元来がんらい矢継早やつぎばや手練てだれなれば、けては射払いはらい/\、すでに二十三筋にじゅうさんすじもっ二十五人にじゅうごにん射落いおとしたり。ですから一本いっぽんにて二人ふたりずつが、二本にほんあったと見えます。されども甲陽勢こうようぜい少しものがさず、われも/\と追従おいしたがいたれば、内藤三左衛門ないとうさんざえもん今は矢種やだねつきたるゆえゆみ投捨なげす大音だいおんげ「イヤ/\遠からん者は音にも聞け、近くばって目にも見候みそうらえ、われこそは徳川左京太夫とくがわさきょうだゆうけん三河守源家康みかわのかみみなもといえやす身内みうちにて大剛だいごうの者と呼ばれたる、内藤三左衛門信成ないとうさんざえもんのぶなりあるを知らざるか」と陣刀じんとう引抜ひきぬ真向まっこうりかざし、むらがる敵中てきちゅうおどり前にあらわうしろかくれ、左手ゆんで右手めて引受ひきけ、むこう者のかぶと天辺てっぺん二三にさんいた、みやげけんとう雨走あまばしり、きくとじしころきらいなく、あたるをさいわい薙立なぎたて、四方八面しほうはちめん追立おいた追詰おいつめ、命限りとたたかったり。その有様ありさま悪鬼羅刹あっきらせつの荒れたるごとし。されば如何いか取囲とりかこむともつことあたわず、しばしはときうつしたり。



(七段目)

 この時神君しんくんおくせにきたってへい一千五百余人いっせんごひゃきよにん引連ひきつれ、一言坂ひとことざかうえ見附台みつけだいまで御馬おんまを進めたまい、本多平八郎忠勝ほんだへいはちろうただかつされ「如何いか忠勝ただかつ最前さいぜん信成のぶなり物見ものみとしてつかわせしが、今にいたるまで帰らぬは、さだめててきかこまれ難儀なんぎいたしると見えたり。なんじはし見届みとどけまいれ」「かしこまってそうろう」と忠勝ただかつ一千三百余人いっせんさんびゃくよにんをひきいて烈風れっぷうごと見附坂みつけざかをまっしぐらに只一手ただいって黒煙くろけむりを立て乗出のりいだしたり。さてまた内藤三左衛門ないとうさんざえもん只一人ただひとり山縣やまがた大軍たいぐん取巻とりまかれ、火花ひばならしてたたかう折から、甲陽五色備こうようごしきぞなえのその一人いちにん赤備あかぞなえ大将たいしょう山懸三郎兵衛昌景やまがたさぶろうびょうえまさかげ、その日の扮装いでたち赤糸あかいとよろい、おんなじ毛糸けいと五枚綴ごまいじころかぶと角切折敷すみきりおりしき前立まえたて打ったるを猪首いくびいただき、三千余人さんぜんよにんをひきいて赤地あかじに白く桔梗ききょうはた、銀の双股大根ふたまただいこん馬印うまじるし押立おしたて、かか太鼓だいこ打鳴うちならしエイオウエイオウ/\/\と押出おしいだす。内藤信成ないとうのぶなり先刻せんこくよりのたたかいに、よろいそで草摺くさずりもズタ/\に切裂きりさかれ、萌黄糸もえぎいとも今はくれないへんじ、いかれるまなこしゅそそぎ、口より黒煙くろけむりき、むねも刃金はがねのこぎりごとくにあいなりたる太刀たち真向まっこうりかざし、左手ゆんではら右手めてて、八方十面はっぽうじゅうめんあたりて相働あいはたらく。なれどもてき大軍たいぐんこなたは只一人ただひとり万夫不当ばんぷふとう勇士ゆうしなれども、その金石きんせきにあらざれば、次第々々しだいしだい追詰おいつめられてあわや討死うちじにと見えたるとき一手いって軍兵ぐんぴょうりゅうくもおこいきおいにて、真一文字まいちもんじ乗込のっこきたはたの手は、紺地こんじに白く左離ひんだりばなれ、立葵たちあおいかご、銀の大百足おおむかで馬印うまじるし押立おしたて、真先まっさきに進みたる大将たいしょうは、黒糸くろいとよろいにおんなじ毛糸けいと五枚錣ごまいじころかぶと鹿つの脇立わきだて、銀の獅子頭ししがしら前立まえたて打ったるかぶと猪首いくびいただき、宇田国宗うだくにむねの打ったる微塵丸みじんまる陣刀じんとう揚羽形あげはがたたいし、田原正実たはらまさざね打上うちあげたる蜻蛉切とんぼきり名付なづけたる大身おおみやりを馬の平首ひらくび引付ひきつ会釈えしゃくもなく山懸やまがたむらがる同勢どうぜい只中ただなかへ、ドッとばかりに乗込のりこんだり。これぞ徳川家とくがわけ四天王してんのう一人いちにん本多平八郎忠勝ほんだへいはちろうただかつにて、無二無三むにむさんあたるをさいわい突抜つきつらぬいては中天ちゅうてん打上うちあげ、またはしりえにたたきすえ、三廻みまわ四廻よまわりまんじともえごとたつつれは、山懸勢やまがたぜいはドッと二十間にじゅっけんばかり追立おいたてられたり。



(八段目)

 この有様ありさま山懸昌景やまがたまさかげ大いにいか大音だいおんげ「ヤアヤア味方みかた面々めんめん本多ほんだなればとてよも鬼神きじんにはあらざるべし。引返ひきかえしてかかかかれ」と下知げちなせば、山懸勢やまがたぜい大浪おおなみが岩にあたって返すごとく、又々またまた三千人さんぜんにんときの声を攻立せめたてたりければ、本多内藤ほんだないとう両人りょうにんもここを先途せんとむすぶ折から、本多ほんだ組下くみした桜井庄之助さくらいしょうのすけ都築藤一郎つづきとういちろう三浦竹蔵みうらたけぞう大原左近右衛門おおはらさこんえもん長坂血槍九郎ながさかちやりくろう梶金平かじきんぺい河合又五郎かわいまたごろう柴田五郎左衛門しばたごろうざえもんを始めとして屈強くっきょう勇士ゆうし、ときを作り槍先やりさきそろえてかかる。よって味方みかたはたてきはた入乱いりみだれ、馬煙うまけむり蹴立けたててはげしくたたかいたれども、てき大軍たいぐん味方は小勢こぜいこと山懸やまがた軍配ぐんばいするどく、取巻とりまいて皆殺みなごろしにせよとしきりりに下知げちくだしたり。本多忠勝ほんだただかつこれを物の数ともせず、諸軍しょぐんと共に縦横無尽じゅうおうむじん突立つきたて/\駆廻かけまわれば内藤三左衛門信成ないとうさんざえもんのぶなりも同じく諸勢しょぜいはげまし駆廻かけまわる。これがために甲州勢こうしゅうぜい一町いっちょうばかり、ドッとくずれて追立おいたてられたれば、このあいだ本多ほんだ手早てばや人数にんずうをまとめ、見附坂みつけざかふもとまで引揚ひきあげたり。大将たいしょう昌景まさかげ大いにいかりて鞍笠くらがさ立上たちあがり「きたなき味方みかた有様ありさまかな。これしきの小勢こぜい追立おいたてられ、なに面目めんぼくあって人々にかおを合せられべきか。取囲とりかこんで一人ひとりも残らず討取うちとれや者ども」と、采配さいはい振立ふりたくら前輪まえわを叩きたて/\血眼ちまなこになりて下知げちに及べば、さすがは甲州勢こうしゅうぜいたちまそなえ立直たてなおしてしかかり、屋代安芸守やしろあきのかみ山本土佐守やまもととさのかみさきに馬をあおって乗出のりいだせば、二番手にばんてそなえたる甲陽五色備こうようごしきぞなえ一人いちにん馬場信房勢ばばのぶふさぜいは、白地しろじに黒く山道やまみち段々染だんだらぞめはた、銀の十六葉枝菊じゅうろくようえだぎくきん短冊たんざく十八枚じゅうはちまいつけたる馬印うまじるし押立おしたて、大将たいしょう信房のぶふさかねてたたかいの様子ようすを見てありしが、時分じぶんはよしと采配さいはい振切ふりきると、かか太鼓だいこを打ちこみ、エイ/\/\/\オー/\/\/\静々しずしずそなえ繰出くりいだす。その手の兵、早川豊後守はやかわぶんごのかみ、同じく彌惣右衛門やそうえもん前島和泉守まえじまいずみのかみ、同じく加賀守かがのかみ先陣せんじんに進み押出おしいだす。この時信房のぶふさ下知げちに「我手わがての兵は正面しょうめんへはかかるべからず。左のほう押廻おしまわ横槍よこやりれよ」とありければ、武勇自慢ぶゆうじまん甲州勢こうしゅうぜいそなえをサッと立て直し、左のかた押廻おしまわる。されども信房のぶふさ本多ほんだが手へはむかわずして、さだめて徳川とくがわ後詰ごづめが来るべしと待掛まちかけたり。



(九段目)★★この段はYouTube音源では省略されています

 さて、本多ほんだてきおびただしく迫来せまりくると心得こころえ、馬のかしら引返ひきかえして見ると、正面しょうめんより山懸やまがた人数にんずう三千人さんぜんにんばかり、左の方より馬場美濃守ばばみののかみ三千人程さんぜんにんほど横槍よこやり
れんと押来おしき様子ようすなり。かくと見てとり下知げちなすよう「馬場山懸ばばやまがた信玄しんげん左右さゆううでなるぞ。この両勢りょうぜい引受ひきうけ、小勢こぜいにてたたかいはかなうべからず。汝等なんじら正面しょうめん山懸やまがたそなえ駈入かけい討死うちじせよ」とづくろいなすうしろかたより、ドッとときの声を乗込のりこきた軍勢ぐんぜいあり。てき味方みかたかと見てあれは「紺地こんじに白くみょうの字のはた一流ひとながれ、あがふじだい三方面さんぽうめん猩々緋しょうじょうひ一段幡連いちだんばれん馬印うまじるし押立おしたて、大久保七郎右衛門忠世おおくぼしちろうえもんただよ、同じく治右衛門忠佐じえもんただすけ、同じく勘十郎忠正かんじゅうろうただまさ、並びにぼし一文字いちもんじはた押立おした渡辺半蔵盛綱わたなべはんぞうもりつな、同じく平十郎政綱へいじゅうろうまさつな、同じく平六直綱へいろくなおつな本多三彌昌重ほんださんやまさしげを始めとして、そのせい都合つごう千二百余人せんにひゃくよにん馬場ばばそなえかかるに、本多内藤ほんだないとう両勢りょうぜいちからを得て、またまた山懸やまがたそなえ走入はしりいり、本多ほんだ郎党ろうとう五百余人ごひゃくやり穂先ほさき組並くみならべ、血煙ちけむり立ててもみ立つれば、てき甲陽名代こうようなだい山縣三郎兵衛昌景やまがたさぶろうびょうえまさかげなり。「多寡たかの知れたる三河勢みかわぜい一人いちにんも残らず討取うちとれッ」と下知げちくだせば、その組下くみしたにて、屋代安芸守やしろあきのかみ山本土佐守やまもととさのかみをはじめとして、甲陽名代こうようなだい勇士ゆうし広瀬郷左衛門ひろせごうざえもん和田嘉助わだかすけ得物々々えものえものを引っさげエイ/\声にてもみ立つるを、本多ほんだ組下くみした桜井庄之助さくらいしょうのすけ都築藤一郎つづきとういちろう三浦竹蔵みうらたけぞう長坂血槍九郎ながさかちやりくろう柴田五郎左衛門しばたごろうざえもん梶金平かじきんぺい、命限りとわたう。この時忠勝ただかつ思案しあんに及び、たたかい手ぬるくいたしては、てき後詰ごづめ追々おいおいくり出さん、さすれば味方みかた引揚ひきあぐること容易よういならずと、采配さいはいとってむなかんにおさめ、田原正実たはらまさざねきたえたる蜻蛉切とんぼきりやりをおっとり、嵐鹿毛あらしかげの馬諸角もろかく蹴込けこんで山懸やまがたそなえ真一文字まいちもんじり、八方隠はっぽうがくれに峯返みねがえし、巌石がんせきくだき、虎返とらがえし、千人払せんにんばらいに千人留せんにんどめ、秘術ひじゅつをつくして右手左手めてゆんで突伏つきふせ、四角八面しかくはちめん駈廻かけまわりて相働あいはたら有様ありさまは、摩利支尊天まりしそんてんの荒れたるごとくなり。この時甲陽こうよう陣中じんちゅうより、萌黄もえぎ陣羽織じんばおり朱具足しゅぐそくちゃくなし、馬をあおって乗りいだしやりかまえて大音だいおんげ、「猪子才蔵いのこさいぞう本多忠勝殿ほんだただかつどの見参けんさんつかまつる」と名乗なのってッかかるところへまた一人いちにん朱具足しゅぐそく陣羽織じんばおりちゃくなし、二間柄にけんづかあらごきのやりを取って馬を乗寄のりよせ、和田嘉助わだかすけ名乗なのりて左右さゆうよりきかかる。心得こころえたりと忠勝ただかつさらにものともせず、上段下段じょうだんげだん両人りょうにん相手あいてむすぶ。両人りょうにん甲陽名代こうようなだい豪傑ごうけつなれども、本多ほんだのために突立つきたてられ、浮足立うきあしだって五六間ごろっけんすでにあやうく見えたるところきん角取紙すみとりがみ指物さしものなし、広瀬郷左衛門ひろせごうざえもん見参けんさんと呼ばわりながらッかかる。続いてきん蝿叩はえたたきの差物さしものなし山本土佐守やまもととさのかみ、続いて同じく黄羅紗きらしゃに白く大筋おおすじ指物さしものして黒川清左衛門くろかわせいざえもん赤地あかじなわめたる指物さしものなし縄無理之助なわむりのすけ名乗なのり、以上いじょう六人ろくにんにて前後左右ぜんごさゆうより忠勝ただかつ取囲とりかこみ、討取うちとらんとかかる。いずれもみな一様いちよう朱具足しゅぐそくちゃくなし取巻とりまいたり。されども忠勝ただかつ少しもおどろかず、勇気ゆうき日頃ひごろ百倍ひゃくばいし、あるいはかかまた退しりぞき、ように開きいんに閉じ、陽炎かげろう稲妻いなづま水に月、前にあらわうしろかくれ、千変万化せんぺんばんか虚々実々きょきょじつじつ、これ一言坂ひとことざか六騎仕合ろっきしあいと申して、唐土もろこし呂布ろふが働きもかくやと思うばかりなり。黒川清左衛門くろかわせいざえもんすきを見て「大喝だいかつさけんで突出つきだ槍先やりさき忠勝ただかつエイとぱらえば、黒川くろかわうんやつきけん槍先やりさきポキとれてけり。これはとやりを投げ拾てて刀のつかへ手をかけるところをヤッとばかりに突出つきだ手練てれんただ一突ひとつき、黒川くろかわ馬上ばじょうにたまらず逆様さかさま、ずんでんどうとまろび落ちたり。残り五人を相手あいてにして、火花ひばなを散して相戦あいたたかう。この時内藤三左衛門信成ないとうさんざえもんのぶなり山懸やまがたそなえいてれば、山懸勢やまがたぜいはこれがために雪崩なだれいてくずわたり、縄無理之助なわむりのすけ猪子才蔵いのこさいぞう和田嘉助わだかすけ山本土佐守やまもととさのかみ広瀬郷左衛門ひろせごうざえもん甲陽名代こうようなだい勇士ゆうしなれども十間じゅっけんばかりうしろうしろへと引退ひきしりぞく。このすき本多内藤ほんだないとう、早くも人数にんずうを集めて引揚ひきあげる。忠勝ただかつ振返ふりかえうしろかたを見れば、馬場信房ばばのぶふさ大久保渡辺おおくぼわたなべ火花ひばなを散してたたか様子ようす
 本多内藤ほんだないとうこれを見て、馬場ばばそなえ横合よこあいより無二無三むにむさん乗込のりこめば、これがために馬場ばば軍勢ぐんぜいたじろぎわたって浮足うきあしあいなりしところを、大久保渡辺おおくぼわたなべこのをぬかすなと、無二無三むにむさん斬立きりたつれば、流石さすが馬場ばばそなえ前後ぜんごてきなやまされ、たまりかねて引揚ひきあげたり。



(十段目)

 この時神君しんくんは、一言坂ひとことざかのこなたにそなえを立ててありしが、ワーッワーッワーッというときの声おびただしく聞えたるゆえ、「さては本多内藤ほんだないとう苦戦くせんに及ぶと見えたり。ソレそなえ繰出くりいだせ」と采配さいはいバラリと振切ふりきり、押せ押せと下知げちなせども、味方みかた面々めんめん甲陽こうよう大軍たいぐんに恐れしや、御備おんそなえ一向いっこうかたまらず、ただムラムラムラとして見えたるゆえ神君しんくん大いにいかり、「ヤアヤア者ども、信玄しんげん大軍たいぐんに恐れ臆病風おくびょうかぜさそわれしか。イデそのならば、臆病者おくびょうものあとに残れ」と言い捨てて、すで御馬おんまを進めんとなすところへ、水野彌吉康忠みずのやきちやすただ御馬おんまくつわにとりすがり「おそれながら我朝わがちょう弓矢ゆみや智識ちしきと呼ばれたる大僧正信玄だいそうじょうしんげんが、かく大軍たいぐんそっ発向はっこうところ御味方おんみかたいま御備おそなえかたまらず。千金せんきんにて替難かえがた御身おんみもってしきりに進ませたもうは、雑兵葉武者ぞうひょうはむしゃわざにしで、大将たいしょうの行うところにあらず。御賢慮ごけんりょをめぐらせられてしかるべし。本多内藤ほんだないとう武勇ぶゆうひいでたる人々にそうらえば、よも討死うちじにつかまつるまじ。ッつけ斬抜きりぬけて立帰たちかえるべし。しばらくここにあって様子ようす御窺おんうかがしかるべく」と申上もうしあげる。

★★★★★YouTube音源では『★』で囲んだ部分は省略されています

 神君しんくん大いにいかりて「汝等なんじらごと臆病者おくびょうものがこれあるゆえ信玄入道しんげんにゅうどう大軍たいぐんを見ておそれ、我備わがそなえかたまらざるなり。先駈さきがけの者どもを見殺みごろしにして、われ何をもっ武名ぶめいげんや。ここはなせ/\ッ」とむちもっかぶと天辺てっぺん丁々発止ちょうちょうはっしと続け打ちに打ちたもう。なれども水野彌吉みずのやきちは手を放さず、御轡おんくつわを取りてひかえたるところへ、大久保、渡辺、内藤、しゅにそまり大袖小袖おおそでこそで千切ちぎ千切ちぎれに相成あいなり、指物さしものはズタズタとなり、かぶと振落ふりおとして引上ひきあきたりたれば、神君しんくんはこのてい御覧ごらんありておよろこび限りなし。この折大久保治右衛門忠佐おおくぼじえもんただすけしゅ揚羽あげはちょう指物さしものをズタズタにして引上ひきあきたり、「おそれながら、甲州勢こうしゅうぜい強勇ごうゆうなりといえども、きみ御武勇おんぶゆうに及ぶべきや。先手さきてに進みたる馬場山懸ばばやまがたの兵は、我々どもすで追散おいちらしそうろうなり。このをはずさず御一戦おんいっせんあらば、御勝利おんしょうり疑いあるべからず。早く御出馬おんしゅつばあってしかるべく存じたてまつそうろう」と申上もうしあげる。神君しんくんはうなずきたもうところへ、

★★★★★省略部分ここまで

 ところへ、本多平八郎忠勝ほんだへいはちろうただかつ引上ひきあきたるを、神君しんくん御覧ごらんあって「如何いか忠勝ただかつ合戦かっせん様子ようすはどうじゃ」「ハハッ、甲州こうしゅう猛卒もうそつ鍛練たんれんなることなかなか尋常じんじょうてきにはそうらわず、まことに馬場山懸ばばやまがた武略ぶりゃくおどろそうろう一旦いったん敗軍はいぐんなすといえどもたちまそなえを立て直し進みきたる、その采配さいはいあたがたし。すみやかにここを御引上おんひきあげあってしかるべし。たたかいを好むは良将りょうしょうにあらざるなり。早く御人数ごにんずう引揚ひきあたもうべし。ここはそれがし殿軍しんがりつかまつそうらえば、甲州勢こうしゅうぜい何万なんまんあるともここより一人いちにんも通すまじ」とおいさめ申し上げる。「オオなんじの申すところもっともなり。しからば引揚ひきあげるであろう」とおおせあって、御馬おんうま浜松はままつほう引返ひきかえたまいました。三方ヶ原みかたがはら物見ものみ一席いっせき、これにて読切よみきりいたします。





底本:講談研究別冊・三方ヶ原の物見
   (1966年7月15日発行)

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