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過去の名人講談師・音源(YouTube音声付き)

 過去の名人講談師・音源で著作権の切れているもの(1967年12月31日以前に亡くなっている演者の音源)をアップします。古い録音なので固い言葉が多く、はっきり言って初心者向けではありません。ある程度のマニア向けです。

<六代目一龍斎貞山(いちりゅうさいていざん)>

 1876(明治9)年、東京・銀座の生まれ。明治19年、数えで11歳のとき四代目貞山に入門。明治37年には日露戦争で出征するが負傷。明治40年、六代目一龍斎貞山を襲名。三代目神田伯山、二代目大島伯鶴と共に売り出し、「釈界の三羽烏」と評される。昭和に入り軍国主義が強くなっても二代目大島伯鶴とともに売れまくり、昭和15年から「講談落語協会」の会長を務め、演芸界のトップの地位に立つ。1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲に被災し非業の死を遂げる。享年70。流れるような語り口で「赤穂義士伝」を得意にした。

(参考:「東都講談師物語」著:吉田修 中央公論事業出版)




<四代目邑井貞吉(むらいていきち)>

 1879(明治12)年、山梨県甲府市生まれ。5歳の時に一家で東京・神田に移る。明治28年、数え17歳のときに三代目貞吉に入門。明治38年真打昇進。大正年間には2度渡米をしている。昭和に入るとラジオ放送にも多数出演し、人気を得る。温厚実直な人柄で仲間からの信頼も厚く、戦後講談界のまとめ役的存在であり、昭和28年から亡くなるまで講談組合の頭取を務める。1965(昭和40)年、85歳で老衰のため亡くなる。得意にした演目は「良弁杉の由来」「正直俥夫」「甲斐勇吉」など。

(参考:「東都講談師物語」著:吉田修 中央公論事業出版)




<三代目神田伯山(かんだはくざん)>

 1872(明治5)年、東京・京橋に生まれる。明治16年、数えで12歳の時に二代目神田伯山に入門。明治28年、小伯山で真打昇進。明治37年に三代目伯山襲名。明治40年、数えで36歳の時に初演した「清水次郎長伝」が大評判になり、近隣の席がガラガラになってしまうので「八丁荒し」、「次郎長伯山」とも言われるようになった。また親分肌で多くの弟子を育てた。1932(昭和7)年に死去。

(参考:「東都講談師物語」著:吉田修 中央公論事業出版)



<五代目神田伯龍(かんだはくりゅう)>

 1889(明治22)年、東京・浅草生まれ。明治35年、数えで14歳の時に神田小伯山(後の三代目伯山)に入門。大正8年真打昇進。昭和になるとラジオ放送にも多数出演。「三代目伯山の四天王」と呼ばれるが、読み物によっては遥かに師匠を凌駕したという。「小猿七之助」「祐天吉松」などの世話物を得意とした。昭和21年からは東京講談組合の頭取を務める。1949(昭和24)年に亡くなり、「伯龍の死により講談は滅びた」とも言われた。

(参考:「東都講談師物語」著:吉田修 中央公論事業出版)




<二代目神田松鯉(かんだしょうり)>

 1885(明治18)年、東京・芝の生まれ。父親は二代目神田伯山で後に隠居名「初代神田松鯉」を名乗る。明治28年初高座。26年かかって大正10年ようやく真打昇進、すぐに二代目松鯉襲名。若いころから女にバクチと派手な道楽で有名で、瀬戸内晴美(寂聴)の小説「花野」のモデルにもなった。身体が弱くて肺活量がなく、演技は単調で抑揚がなく、「先代は名人だった。それに比べて二代目は…」とよく比較された。しかし読み物の中に挟み込む「洒落」が面白く、ユーモラスな語り口とともに、愛するファンも多かったという。昭和40年、勲五等双光旭日章受章。1967(昭和42)年、満81歳で死去。

(参考:「東都講談師物語」著:吉田修 中央公論事業出版)




<二代目旭堂南陵(きょくどうなんりょう)>

 1877(明治10)年、大阪・天満に生まれる。明治29年、初代旭堂南陵に入門。東京で修業していた時期もあり、口調にも江戸風の影響があると言われている。明治30年代には、大阪に講釈場は30〜40軒あったが、その後衰退し、戦前に上方の講談師は二代目南陵とその子息である二代目小南陵(後の三代目南陵)だけになり、親子で上方講談の孤塁を守る。現在の上方の講談師は30名ほどであるが、すべてこの二、三代目南陵の系統を継ぐ。昭和37年、紫綬褒章受章。1965(昭和40)年88歳で死去するが、亡くなる2日前まで高座に上がっていたという。



<七代目一龍斎貞山(いちりゅうさいていざん)>

 1907(明治40)年、東京・深川に生まれる。大正11年、満14歳のときに六代目貞山に入門。昭和22年に七代目貞山を襲名。戦争で多くを失った講談界にとって久しぶりに明るいニュースで、披露興行の模様はNHKラジオで生中継されたという。夏場なると怪談をしばしば掛け「お化けの貞山」と呼ばれるほどに好評を博した。また一龍斎のお家の芸である「赤穂義士伝」も得意とした。八代目一龍斎貞山は実子。1966(昭和41)年、脳出血で死去。享年59歳。

(参考:「東都講談師物語」著:吉田修 中央公論事業出版)




<二代目大島伯鶴(おおしまはっかく)>

 1877(明治10)年、福島県白河に生まれる。幼い時に父親の初代伯鶴とともに上京。13歳のときに講談界に入り、明治44年、二代目伯鶴を襲名。昭和になると六代目一龍斎貞山と人気を二分し、釈界を盛り上げた。1946(昭和21)年に喉頭ガンのため死去。享年58歳。とくに「寛永三馬術」を得意とし、やはりこの演目を得意とした五代目宝井馬琴に大きな影響を与える。余談だが、二代目伯鶴の子息と落語界の名人・四代目柳家小さんの娘さんがのちに夫婦になり、築地で居酒屋を営んでいたという。

(参考:Wikipedia)



<三代目小金井桜洲(こがねいおうしゅう)>

 1877(明治10)年、東京・浅草に生まれる。化粧品屋の主人であったが、講談が好きでたまらず三代目芦州の追っかけをしていた。40歳のときようやく正式に三代目芦州に入門。昭和17年、中国に渡り北京で江戸前のそば屋を営む。戦後は東京に戻り昭和22年頃、講談界に復帰。昭和25年、五代目芦州を襲名するが、四代目の遺族とイザコザがあって昭和33年に芦州の名を返上、桜洲となる。この時満80歳であった。1961(昭和36)年、脳出血のため死去。83歳。「塩原多助」「鼠小僧」などの世話物を得意とした。

(参考:「東都講談師物語」著:吉田修 中央公論事業出版)




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