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『赤穂義士外伝〜小田小右衛門』あらすじ

(あこうぎしがいでん〜おだこえもん)


【解説】
 赤穂義士が討入りを遂げた後の後日談。討入りを果たした義士銘々に切腹の沙汰が下される。元禄16年2月4日、細川家に預けられていた大石内蔵助(くらのすけ)も切腹をするが、介錯したのは小田小右衛門という10石2人扶持の足軽であった。大石内蔵助といえば1500石のご家老様でしかも主君の仇を取った立派なお方。一方自分は取るに足らない足軽。切腹の際に大石から身分を問われ、ついついウソを言ってしまう…。
 まったく同様の内容で『荒川十太夫』という話がある。切腹するのが堀部安兵衛、介錯人が荒川十太夫と登場人物の名が異なるだけで他はほとんど変わらない。一龍斎や神田は『荒川十太夫』を、宝井などそれ以外の流派は『小田小右衛門』を演じることが多いようである。『荒川十太夫』と『小田小右衛門』。ストーリーとしてはほぼ同じであるが、それぞれの流派・演者による味付けの違いに注目したい。

【あらすじ】
 元禄15年12月14日、本所松坂町の吉良邸に討ち入り、見事主君・浅野内匠頭の仇を取り本懐を遂げた赤穂四十七士。この後浪士たちは処分が決まるまで毛利、細川、松平、水野の四家の大名にお預かりの身となった。細川家に預けられたのは大石内蔵助ら14人である。細川家では浪士たちを手厚くもてなす。
 しばらくして浪士たちには切腹の沙汰が下される。前々年、彼らの殿様である浅野内匠頭を介錯したのは御目見(おめみえ)以下の身分の者であった。したがってその家来たちにそれ以上の身分の者が介錯をする訳にはいかない。大石の介錯人には小田小右衛門(おだこえもん)という10石2人扶持の足軽が選ばれる。小右衛門は10日前から水垢離(みずこり)をして身を清める。
 元禄16年2月4日、いよいよ切腹の日である。堂々たる姿で現れた浅野家の筆頭家老・大石内蔵助。切腹を前に、介錯人である小右衛門に「貴公のご身分はいかに」と尋ねる。大石様といえば1500石の筆頭家老。しかも主君の仇を討ったという立派なお方である。それに対して自分は10石2人扶持の足軽に過ぎない。自分のような身分の低い者が介錯をすると知れば、大石様はさぞガッカリするであろう。小右衛門はついつい「細川家で500石を取る物頭役(ものがしらやく)である」とウソを言ってしまう。「それほど大身の方が介錯して下さるとは身に余る光栄である」。納得した大石は切腹して壮烈な最期を遂げる。その後小右衛門は偽りを言ったことが気に掛かってしょうがない。
 それから小右衛門は自宅で奥方と毎夜内職をして日銭を稼ぐ。そろそろ大石の一周忌という頃に衣装を借りるが、これならば500石取りにも見える。人足2人を雇って家臣の拵えをさせて、駕籠に乗り泉岳寺を訪れる。泉岳寺では住職と対面する。「拙者は細川家の物頭役、小田小右衛門と申す者である」と名乗り、金300疋(ひき)を寺に、500疋を大石ら浪士への供養料として納める。その後、大石の墓に参り、「許してくだされ」と涙を流す。
 駕籠に乗って自宅に戻った小右衛門。それから再び倹約に努め、妻と共に内職をする毎日である。また1年経って、今度は三回忌である。小右衛門は昨年と同じく衣装を借り、駕籠でもって泉岳寺に乗り付け住職に供養料を納める。小右衛門は大石の墓へと向かったが、その少し後に現れたのが細川家の重臣であり越中守の代参で来た長岡監物(けんもつ)である。住職から「小田小右衛門という物頭役の方が今しがた参りました」と聞かされるが、細川家には小田という名の物頭役はいない。訝しく思う長岡が大石の墓へと向かうと、墓参りを終えた小田小右衛門と鉢合わせする。「これはご重役様」と小右衛門はひれ伏す。なぜ当家の足軽である小田小右衛門がこのような姿でこの場にいるのか。「申し訳ありませんでした」と小右衛門は長岡にすべてを正直に打ち明ける。立派な心掛けではあるが偽りを申したのはけしからぬ。アッパレとは言えぬが不届き者とも言えない。どうすれば良いか分からない長岡監物。
 翌日、長岡は城中でこの件を申し上げると、細川越中守はホロリと涙を流す。家中にこのような心ある者がいるとは喜ばしいことだ。足軽であった小田小右衛門は、本当に500石にご加増になり物頭役へと大出世する。その後、小右衛門は細川家で立派な働きをし、幕末までその名を残したという。




参考口演:宝井琴柑

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