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『赤穂義士銘々伝〜安兵衛 高田馬場駆け付け』あらすじ

(あこうぎしめいめいでん〜やすべえ たかだのばばかけつけ)


【解説】
 この『安兵衛 高田馬場駆け付け』は、数多ある講談の読物のなかでももっとも有名なもののうちの一つであろう。安兵衛は「生涯三度の仇討ちをした」人物で、赤穂浪士の中でもきっての剣客であった。
 堀部安兵衛武庸(たけつね)は、1670(寛文10年)の生まれ。話中にもあるよう、元は越後国新発田藩の家臣の長男であった。『高田馬場の決闘』があったのは、1694(元禄7)年2月11日。この決闘は当時評判になり、安兵衛は請われて浅野内匠頭の家臣である堀部弥兵衛の婿養子となり、内匠頭切腹後は赤穂浪士に加わることになる。

【あらすじ】
 赤穂四十七士の中でも、堀部安兵衛武庸(ほりべやすべえたけつね)はもっとも高名な人物である。元は新発田藩の溝口家の家来で中山安兵衛といった。安兵衛の義理の母、おみつに懸想した黒田郷八は叶わぬ恋の遺恨からおみつを殺害する。安兵衛は15歳のときこの郷八を斬って仇を討つが、これが安兵衛最初の仇討ちである。その後新発田を出て浪人し、上州・馬庭(まにわ)に来て樋口十郎左衛門の指南の元、念流の剣術をみっちり仕込まれる。江戸へ出て、松平左京太夫の剣術指南番をしている叔父の菅野六郎右衛門(すげのろくろうえもん)の世話を受ける。気ままに暮らしたいと、京橋八丁堀・岡崎町でひとり家を借りる。六郎右衛門が小遣いをくれるが、大酒飲みの安兵衛はあっという間に使い果たしてしまう。そこで考えたのが喧嘩の仲裁である。喧嘩をしている両人の間に入って仲裁をする。その酒席での金は喧嘩をしていた者に支払わせて自分はタダで酒を飲むという寸法である。
 話変わって、菅野六郎右衛門。剣の腕前が良く人格もあるので、松平家の家中での評判も良い。同じ指南番を務める村上庄左衛門と弟の三郎右衛門という兄弟がいるが、この2人は性悪で評判が良くない。殿様の前で六郎右衛門と村上兄弟が戦うが、六郎右衛門が勝ち兄弟は浪人してしまう。これを遺恨に思った村上兄弟は六郎右衛門に果たし状を送る。場所は高田馬場、時刻は正四ツ時。相手は村上兄弟、薙刀の達人の中津川友範(ゆうはん)ら22名。
 六郎右衛門はもはや命は無いと覚悟を決め、安兵衛に対して一通の手紙を文助という中間(ちゅうげん)を介して送る。しかし安兵衛は留守であった。しばらくして安兵衛は帰ってきて糊屋の婆さんの家で寝ている。婆さんが起こすとひどく酒臭い。叔父から手紙が来たと聞いて「またご意見か」と思ったが、見ると今日の高田馬場での決闘の件が書いてある。時刻は正四ツ時。もうすでにその時刻である。婆さんの家にあった御鉢を取り上げて手づかみでムシャムシャ飯を食い、水をゴクンと一飲みすると、大小を差して表に駆けだす。
 息をつかず走り高田馬場までやって来た。大勢の人垣の中に押し入ると、叔父の菅野六郎右衛門は数か所の傷を負い、全身血だらけになって倒れている。また中間の文助と相手方4人も血に染まって息絶えている。もう少し早ければと思う安兵衛。安兵衛は縄をタスキにしようと思うが、見物の中の婦人から声を掛けられる。50歳ほどの女性であり16〜17歳の娘と一緒で、鬼子母神の参詣の帰りだと思われる。婦人は縄をタスキにするのは縁起が悪いと、緋縮緬(ひじりめん)の帯を差し出した。相手は村上庄左衛門、中津川友範など18名。安兵衛はこの者たちをバッタバッタと斬り倒す。正当な仇討ちだということで安兵衛はお咎めもなく、高田馬場を引き揚げる。
 この話を聴きつけてあちこちの大名から仕官の声が掛かるが安兵衛は応じない。高田馬場で帯を貸してくれたのが、浅野家家臣、堀部弥兵衛金丸(ほりべやへえかなまる)の妻と娘であった。これが縁で安兵衛は堀部家の婿養子となるのだが、その話はまた別の機会に。




参考口演:宝井梅湯

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