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『赤穂義士銘々伝〜三村の薪割り』あらすじ

(あこうぎしめいめいでん〜みむらのまきわり)



【解説】
 三村包常(みのむらかねつね)(1667〜1703)は赤穂浪士四十七士の一人で通称は次郎左衛門(じろうざえもん)。7石2人扶持の小禄で、身分の低い台所役人であった。
 三村次郎左衛門は、吉良邸の様子を探るべく、薪割り屋として歩きまわる毎日である。ある日、吉良邸に程近い本所緑町で、刀研ぎの名人と言われる竹屋喜平次の家に呼び入れられる。薪割りの腕も見事だが字を書くのもまた上手い。店の看板を名筆で書き上げ、喜平次や竹屋の人々にすっかり気に入られる…。
 赤穂義士伝のなかでもこの『三村の薪割り』は比較的かかる機会の多い読物であるといえよう。

【あらすじ】
 元禄15年のこと、主君・浅野内匠頭の仇を討つべく赤穂の浪士はそれぞれ姿を変え、本所松坂町・吉良邸の様子を伺っている。なかで三村次郎左衛門包常(かねつね)はボロ半纏を身にまとい薪割り屋として歩きまわる毎日である。ある日、三村は吉良邸に程近い本所緑町で、刀研ぎの名人と言われる竹屋喜平次光信(たけやきへいじみつのぶ)の家に呼び入れられる。「エィ、スパッ」。三村は薪の硬い部分を次々と斧で割っていく。「うまい、うまい」。薪をきれいに割る姿を気に入った竹屋光信は、次郎兵衛と名乗る三村に毎日家に来てもらうよう請う。
 こうして何日か経ったが、言葉遣いといいその礼儀正しさといい竹屋光信には彼がただの町人とは思えない。本当は武家の出ではないのかと尋ねるが、三村は奥州・二本松の百姓の倅だなどと言ってごまかす。
 この日も三村が竹屋を訪れると、何も書かれていない板がある。これは何かと尋ねると店の看板にしたいのだが、文字の書き手を探しているとのことである。浅野の家中でも一二という名筆であった三村は、討入りを目前にし何かをこの世に残したいと思ったのか自分に書かせて欲しいと頼み、「御刀研上処竹屋喜平次光信」と見事に書き上げる。
 それからしばらく三村は竹屋に姿を見せなくなった。今度はいつ来るのだろうと思う竹屋の人々。その間に12月14日の吉良邸討入りが決まり、三村は大石蔵之助から討入りに用いるよう名刀・彦四郎貞宗を渡される。袴姿の三村は竹屋光信の元を訪ねる。今度は自身を二本松・丹羽家の家臣・小松次郎左衛門だと名乗り、故郷への土産話にするために彦四郎貞宗を江戸でも名高い研ぎ師、竹屋光信に研いでもらいたいと頼む。4日経って刀は見事研ぎあがる。研ぎ料として金子を渡し、次に出府するまでに研いでおいて貰いたいと永正祐定(えいしょうすけさだ)の刀を預ける。三村が竹屋から去ろうとするときに庇が新しくなっていることに気付く。庇を支えているのは真金より硬いと言われる桑の腕木で、研ぎあがったばかりの彦四郎貞宗を振り下ろすと、スッパリと真っ二つに斬れてしまう。
 赤穂義士は12月14日夜吉良上野介の首を討ち取り、江戸の市中は大騒ぎである。15日の早朝、竹屋光信もまた人垣をかきわけ泉岳寺へと引き揚げる赤穂義士の一行を見物するが、その中に見知った顔がある。次郎兵衛、さらに小松次郎左衛門と名乗った方は実は浅野様の忠臣であった。三村の前で涙する竹屋光信。2度も名を偽ったことを詫びる三村。彦四郎貞宗の斬れ味が鋭かった旨を伝え去っていく。
 これから三村の遺した看板、永正祐定の刀、桑の腕木を見物をしに竹屋を次から次へと人々が訪れる。この話は加賀前田家にも伝わり、竹屋光信は前田家に召し抱えられ、九十余歳の長寿を保ち大往生を遂げたという。また三村次郎左衛門包常はよく知られている通り、元禄16年2月4日、水野の屋敷で切腹し、武士の道を貫いた。




参考口演:宝井琴柳

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