『講談るうむ』トップページへ戻る講談あらすじメニューページへ メールはこちら |


『赤穂義士銘々伝〜槍の前原』あらすじ

(あこうぎしめいめいでん〜やりのまえはら)



【解説】
 前原宗房(まえはらむねふさ)(1664〜1703)は、赤穂浪士四十七士の一人で通称は伊助。この講談では元は近江国の漁師であったことになっているが、史実とは異なる。
 伊助は漁をしているうちに槍術を極め、その腕を世に役立てたいと江戸へ出る。江戸では築地鉄砲洲の浅野家に水汲み中間として住み込むようになる。ある日、浅野家の家来である高木良助という者の槍持ちがいなかったので臨時に伊助がその供をする。高木の乗った馬の蹄が泥水がはね、町道場をひらく大島運平の服にかかる。高木は大島から肩先から斬りつけられ死んでしまう…。

【あらすじ】
 近江国坂田郡前原村に住む、漁師伊平の息子で伊助。湖水の魚を銛(もり)で突いて漁をしているうちに槍術の極意を知ることになった。これほどの槍の腕前があるのに漁師では惜しい、なんとか侍として世に立ちたいものだと志を立て、江戸の築地鉄砲洲軽子橋に屋敷のあった浅野家に水汲み中間として住み込むようになった。江戸へ来て五年。言葉もすっかり国訛りが消えて江戸弁を話すようになっていた。
 元禄八年のある日のこと。ご主君浅野内匠頭長矩公のご家来で百五十石を頂いていた高木良助という旦那が、青山隠田松平左京太夫様までお上のお使いに行く。あいにく槍持ちがいなかったので臨時雇いとして伊助がその供をした。この高木という人が馬術が実にまずく、往来の者が笑いながら通り過ぎていく。あまりにみっともないので伊助は槍持ちを途中で抜け出し居酒屋へと行ってしまう。
 高木が青山久保町にかかった時、往来の水たまりに馬の蹄(ひづめ)が入り泥水がはね、青山六道の辻に町道場をひらく大島運平の紋服にかかった。すぐに謝ればその場は収まったかもしれないが、高木は何しろ馬に乗っているのがやっとという有様だから、すぐにヒラリと飛び降りるなんていうことは出来ない。馬からドサッと落ちたところを「無礼者」と大島運平に肩先から斬りつけられてしまった。浅野家には腕前優れた人物が多くいるであろうからここへ呼べと高木の供の者に言いつける大島。そこへすっかり酔っていい気持ちになった伊助が追いつく。高木が斬られて死んでしまったことを聞かされた伊助。このままご検死見届けの者がやってくると、高木には侍の覚悟がなかったと百五十石の家がお取り潰しになってしまうだろうと嘆く。主人の仇討ちと、まずは大島の門弟、木村一角を槍で胸先を突いた。続いて大島も伊助に良いようにされている所へやって来たのが、堀部安兵衛、大高源五。伊助は大島をどうと倒してしまった。亡き高木の手を持ち添えて、大島の喉元へ止めを刺した。形式的な事ながらこれで高木の家の禄はわずかばかりでも残ることになった。
 この事が大高源吾から片岡源五右衛門、そして浅野内匠頭の耳に入り、お目通りが許された。五十石の侍分に取り立てられ、出身の村の名を取って「前原伊助宗房(むねふさ)」と名乗るようになった。
 浅野公からの御恩を受けた伊助は、元禄十五年十二月十四日、赤穂浪士四十七士のなかに加わり、吉良邸に討ち入り主君の仇を討つのであった。




参考口演:一龍斎貞山

講談るうむ(http://koudanfan.web.fc2.com/index.html
inserted by FC2 system