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『矢矧橋〈太閤記〉』あらすじ

(やはぎばし〈たいこうき〉)


【解説】
 『太閤記』の中のうちで、藤吉郎と言った頃の秀吉と、橋の上で易者をしていた後の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)のエピソードを描くが、もちろんまったくのフィクションである。
 今川義元を見限った藤吉郎は三河国・矢矧橋を渡ろうとすると一人の易者に呼び止められる。易者は藤吉郎に「お前はこの先天下を取る相だ」と告げ、別れる2人。その後、織田信長に仕えた藤吉郎はトントン拍子に出世し、羽柴秀吉という名で大大名になる。本能寺の変で信長が討たれ、中国の毛利氏と和睦を結ぼうという時に恵瓊(えけい)という寺の住職と出会う。彼こそはかつて矢矧橋で出会った易者であった…。

【あらすじ】
 天文4年、尾州愛知郡中村に百姓の子として生まれたのは日吉丸、後の豊臣秀吉である。幼い頃より方々に奉公に出るが、ひじょうに頭の良い子供なので使いこなせる大人がいない。13歳の時に無一文で郷を飛び出して、やって来たのは三州矢矧橋(やはぎばし)。橋の下で菰を被って寝る。夜が明けると、岡崎城の若君、徳川竹千代様が橋を通行なさるので退くよう迫られる。竹千代とは後の徳川家康であり、この時7歳であった。竹千代は駕籠で橋を渡るが、その姿を見た日吉丸は自分もいつか大名になって堂々とこの橋を渡ろうと思う。
 それから三州、遠州、駿州と渡り歩いた日吉丸は、今川義元の軍師である松下加兵衛之綱に奉公をする。優秀な者であるのですぐに武士に取り立てられ、木下藤吉郎という名を頂く。藤吉郎は今川義元の姿を見るが、この方は天下を取る器でないと見抜く。
 22歳の時、義元を見限って再び浪々の身となり、三州・矢矧橋へと久しぶりにやってくる。橋詰のところに易者が一人おり、藤吉郎を呼び止める。傍から藤吉郎の姿を眺めていたが、大変に珍しい相なので、勉強のために良くその相を見てみたいと言う。藤吉郎が「見料を出せ」というと、易者は朝から稼いだ金を渡し、さらに弁当を食べさせる。易者は天眼鏡で藤吉郎の顔相を見、藤吉郎も反対側から易者の相を見る。「この易者は良い相をしている。出世するに違いない」と藤吉郎は思う。これではどちらが易者か分からない。
 易者は藤吉郎の顔相、手相、骨相の三相をしっかり見る。この者は只者でない。このままトントン拍子に出世し、将軍まで昇りつめることが出来ると藤吉郎に告げる。藤吉郎は易を信じると言い、また易者に対してお前も立派な者になれるであろうと言う。藤吉郎は見料として小柄を渡した。易者は自分の名が珍蔵主(ちんぞうす)であると言い、2人は別れる。
 これから藤吉郎は尾張の織田信長に仕える。たちどころに出世し一国一城の主となり、羽柴秀吉と名を改めた。天正10年、本能寺の変で信長が倒れると、主君の仇を討つため秀吉はそれまで戦っていた毛利と和議を結ぶ。なぜこれほど早く両者が和議を結べたかと言うと、芸州・広島に毛利氏の祈願寺である安国寺があり、そこに恵瓊(えけい)という住職がいる。この恵瓊こそが、かつて矢矧橋で藤吉郎と出会った、珍蔵主という名の易者であった。恵瓊は大大名になっていた秀吉と再会し、やはり天下はこの者を選んだかと思い、早々に和議を整えたという。
 山崎の合戦で明智光秀を討ち、さらに奥州、小田原を破り天下を手中に入れる。秀吉は14万の大軍を引き連れて、故郷の尾州・中村へ里帰りをすることになる。奥州街道から東海道に入り、浜松では徳川家康が接待する。やがて三州・矢矧の橋に差し掛かると秀吉は駕籠を降り景色を眺める。脇で膝を着いているのは、接待役の家康であり、秀吉は「ワッハッハ」と笑い満足するのであった。




参考口演:一龍斎貞橘

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