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名医と名優(田之助の義足芝居)

(めいいとめいゆう・たのすけのぎそくしばい)


【解説】
 『名医と名優』というと三代目中村中村歌右衛門を主人公とした読物(『男の花道』とも)が有名であるが、これはそれとは別の、立女形として名を成した三代目澤村田之助の、実際にあった話を元にした読物である。ほぼ史実に則しているといえる。
 三代目澤村田之助(さわむらたのすけ)(1845〜1878)は幕末から明治初期にかけて活躍した歌舞伎役者で、当時の女形としては第一人者であった。屋号は紀伊國屋。舞台中、吊り上げられた状態から落下し、怪我を負い脱疽を患う。ヘボン博士の執刀により片足を切断し、その後も義足をつけて舞台を務め続ける。

【あらすじ】
 幕末から明治初期にかけて、日本一の名女形(おやま)というわれた三代目澤村田之助という役者がいた。16歳のときに他の名優を差し置いて立女形になる。
 慶応元年3月、猿若町の森田座では河竹黙阿弥の新作、紅皿欠皿(べにぞらかけぞら)の狂言が掛かっているが、初日から大変な評判である。その六日目のこと、筋書通り、田之助演じる欠皿姫が木の上に吊り下げられていると、その木がバキッと折れる。田之助は舞台の上に落ち「痛い、痛い」と悲鳴を上げる。落ちて来たその真下に、三寸釘が上を向いた板切れが投げ出されてあり、その釘を踏み抜いてしまった。「早く幕を引け」。舞台も客席も大騒ぎである。田之助は楽屋へ運ばれるが、顔は真っ青である。なぜ、頑丈な柱が折れたのか。その下に釘を刺した板切れがあったのか。これは誰がが企んだのか。
 翌日から、田之助は痛みをこらえて舞台に立つがこれがまた評判になる。しかし千秋楽まで来て、段々腫れが広がり、踏み抜いたところから太もものあたりまで痛んでくる。しまいには右足全体が紫色に腫れあがる。容態はますます悪くなるばかりである。
 秋になるともう身体を動かすこともできない。もう命もこれまでかとめっきり弱った田之助。そこへ田之助を贔屓にする元南町奉行の小笠原長門守長常(ながつね)というお殿様が見舞いに訪れてくる。田之助のやつれた姿に驚く長門守。日本一の名医、蘭方外科の佐藤泰然(さとうたいぜん)に診てもらったらどうかと勧める。佐藤泰然といえば江戸に知らぬ者はない日本一の外科医で、将軍様のお脈も取るというお方である。
 田之助は両国、薬研堀の泰然の元に運ばれ、診察室のベットに寝かされる。泰然はこれは全身に毒がまわる脱疽(だっそ)である。命が助かるためには、腐った右足を腿の付け根から切らなければならないと言う。しかしその手術を出来る者は今の日本人ではいない。出来るのは横浜居留地のヘボン先生しかいないと言う。泰然から説得をされ田之助も手術を受け入れる。泰然の依頼を横浜のヘボン先生も快く承諾した。
 田之助は船で横浜へと移動し、ヘボン博士の手術室へと運ばれた。助手として佐藤泰然とその弟子の山口舜海(しゅんかい)が同室する。自分は女形であるから寝ている間にみっとも無い姿は見せられないと、田之助はクロロホルムによる麻酔を拒否する。こうして手術は無事終わった。その後の経過もしごく順調である。
 半月も経って田之助は江戸に戻る。足1本失ったとはいえ、身体は丈夫になる。そのうちにヘボン先生に依頼していたアメリカ本国からの義足が到着する。さっそく着けてみると、普通の足のある人のように自由自在に立ち回れる。こうして再び舞台に出る話が持ち上がるが、田之助はヘボン先生に見せるため、横浜・下田座の緞帳芝居に出演するという。緞帳芝居は地方の格の下がった芝居小屋で一流の役者の出るようなところではない。当時の人気役者を集め、ヘボン先生とクララ夫人を招待し、この下田座での芝居は大きな評判になり連日札止めである。田之助は口上で、涙を流しヘボン先生への深い恩を語るのであった。




参考口演:宝井琴梅

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