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『浜野矩随』あらすじ

(はまののりゆき)



【解説】
 『浜野矩随』は落語でもよく掛かるお馴染みの演目だが、元は講談として演じられたもの。母親が死んでしまうパターンと助かるパターン両方があるのも、講談と落語とで同じである。
 腰元彫りの名人、浜野矩康(のりやす)の一人息子で矩随(のりゆき)という者がいる。父親の死後、矩随は母親と共に暮らすが、どうにも不器用で造る作品は駄作ばかりである。しかし道具屋の若狭屋新兵衛はなにかにつけ矩随の面倒を見てくれ、どんな駄作でも買ってくれる。ある時、矩随が持ってきた作品は馬に三本の足しかない。酒に酔って機嫌の悪い新兵衛は矩随に死んでしまえという。本当に死のうとした矩随に、母親は形見の品を残してくれという…。

【解説】
 明和から安永年間にかけて、武蔵国大森村に腰元彫りの名人で浜野矩康(のりやす)という者がいた。腰元彫りとは刀の小柄・柄頭、あるいは煙草入れに彫る彫刻である。矩康は酒のために若死にする。残されたのが一人息子の矩随(のりゆき)であるが、不器用で何を彫らせても駄作である。代々の家にもいられなくなり、芝・浜松町の裏長屋に年老いた母親と住む。矩随は貧しくとも親孝行であり、そんな矩随を芝神明の道具屋、若狭屋新兵衛はなにかにつけ面倒を見てくれる。
 ある日、矩随は新兵衛のところに小柄に彫った作品を持っていく。猫かと思ったらこれは虎だと言う。それでも新兵衛は二朱の金を与える。それから三日目、また矩随は若狭屋を訪ねる。この日は新兵衛は酔っぱらっていて、機嫌が悪い。今度の作品は馬だが足が三本しかなく、しかも一本が異様に太い。亡くなった父親の足がむくんでいたのを思い出しながら彫っていたらこんな風になったと言う。新兵衛は、こんな物は売り物にならない。今まで矩随が持ってきた作品も一つも売れず、抽斗に入ったままになっている。矩随が親孝行だからこそ、二朱ずつの金を出しているが実は迷惑している。倅がこんな出来の悪いものばかり拵えているのを父親の矩康さんは草葉の陰で嘆いているだろう。いっそのこと、腰元彫りなんかやめてしまえ、あるいは思い切って死んじまえと言う。新兵衛は二朱の金をポーンと放り投げ、矩随はそれを掴んで若狭屋を出る。その後で、なんであんなキツイことを言うのかと、新兵衛は女房から叱られる。
 家に戻った矩随は母親に、とうとう若狭屋さんにまで愛想を尽かされたと話す。母親は若狭屋さんの言う通りお前は死んでおしまいなさいと言い、矩随も承知する。母親は、その前に形見として観世音菩薩を彫って貰いたいと言う。母親は観世音菩薩の描かれた掛物を掲げて一心不乱に祈る。矩随はこの観世音菩薩を手本に彫ろうと思ってジッと見入る。それから21日経って身を清め、仕事場へと入っていく。観音経を唱えながら、不眠不休でタガネを打つこと7日7晩。8日目の朝、フラフラしながら矩随は仕事場から出てくる。彫り上げた観音様を母親に見せる。見事な出来栄えだと母親は言う。これを若狭屋へ持っていって、値を付けてもらってくれ。もしそれが20両以上だったら伝えに戻ってきてくれ、もし20両以下だったら家へ戻ってはいけない、どこへでも行って死んでおしまいなさいと言う。
 矩随は若狭屋を訪ねる。すっかりやつれた姿を見て新兵衛は驚くとともに、前来た時に暴言を言ったことを詫びる。矩随が新兵衛に観音菩薩を見せると、これは父親の矩康が作ったものだと勘違いをする。新兵衛がこれは30両、40両で売れる品だと言うと矩随は泣き出す。矩随はこの観音菩薩は自分で彫ったものだと打ち明ける。彫り上げるまでのいきさつを話すと新兵衛は感心する。家を出る際、湯飲みに入った水を半分ずつ母親と飲んだことを矩随が話すと新兵衛は驚く。それは別れの水盃だ。浜松町の裏長屋へと急ぐと、母親が懐剣をノドに突き刺しまさに死のうとしているところだった。「おっかさん、待ってください」、矩随は叫ぶ。新兵衛は、矩随はもう名人だという。矩随と母親は手に手を取って喜び合う。
 これから矩随の彫るものは傑作ばかりで、早速江戸中で名工・名人と評判が立つ。矩随の作品は引っ張りだこで、どこへ行っても見つからない。若狭屋は大坂から来た男に、かつて矩随が作った駄作の「河童タヌキ」を売りつけるが、それでも男は大喜びする。不器用であった矩随が、努力の末いつしか名人と呼ばれるようにまでなった、『浜野矩随』という一席。




参考口演:一龍斎貞弥

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