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『仏縁物語』あらすじ

(ぶつえんものがたり)



【解説】
 武州・大宮の智光寺の善真という子供は、幼いころに捨てられ母親の顔も名も分からない。ただ一つの手がかりとして和歌の書かれた書付が残されてる。ある時、幽玄上人という和尚が法話を説きに寺にやってきて、この上人と共に諸国を行脚することになる。
 修行を重ね立派な僧になった善真は説教師になる。年老いた幽玄とは別れ、一人説教をしながら諸国を巡る。いつも説教をする前に、和歌の上の句を詠み、聴衆のなかからその下の句を知っている者を探す。この下の句を知っている者こそ、我が母親に違いないと思いながら…。

【あらすじ】
 浅草田町に西念寺という寺があり、和尚の幽玄(ゆうげん)上人は関東一円に布教の旅に出ている。通りがかった武州大宮の智光寺(ちこうじ)で7日間の法話を開講することになり、多くの善男善女が集まった。上人が説教を終え本堂より下がると、顔を真っ赤にした僧が拳を振り上げ10歳くらいの子供を殴ろうとしている。聞くと、法話をしているあいだにこの子供が次の間から上人の姿を覗きながら、手を挙げたり足を上げたりとふざけた格好をしていたという。子供が言うには上人のように説教が上手くなりたくて、身振り手振りを真似していたとのことであった。上人は説教が上手くなってどうしたいのかと尋ねると、子供は日本六十余州をまわって母親を探したいという。
 この子供は善真(ぜんしん)といい、赤ん坊の頃にどこかの漁村に捨てられていたのを先代の住職がみつけ、以来この寺で預かっているという。母親の顔も名も、さらに自分の生まれた場所も分からないというが、ただ一つ母親が子に残した書付がある。そこには善太郎いう名前と、「子を捨つる野毛の浦風身にしめど捨てずばなどて親を助けん」と和歌が書かれている。これを見た上人はハラハラと涙を流す。親を取るか子を取るか、よほどの事があってこの子を捨てたのであろう。母親もお前の事を探しているだろうと上人は言う。これから幽玄上人は善真とともに諸国布教の旅に出ることになった。
 諸国をまわり修行を重ねること、はや5年。善真は19歳になり、幽玄上人に代わり大説教ができるほどの立派な僧になっていた。京の本山へ行き、善真は幽玄に代わって西念寺の住職になり、布教師の資格を頂く。江戸に戻って年老いた幽玄とは長の別れをし、善真ひとりで諸国布教の旅に出る。若く朗々とした善真の説教は聴衆にも評判が良い。いつも説教を始める前に和歌の上の句「子を捨つる野毛の浦風身にしめど」を詠み、誰かこの下の句をご存知の方はないかと聴衆に尋ねる。この句を知っているものこそ母親に違いないが、しかし一向に見つかることは無い。
 こうして五年、七年と時は過ぎる。母親はもうすでにこの世にはいないのであろうか。母親への未練を断ち切らなければならないのか、心が揺らぐ。
 さて母親は生きていたのである。おまさと言って八王子から夫と親と共に出てきたところで、善太郎つまり善真が産まれた。そこで親が中風(脳溢血)に罹り寝たきりになってしまい、さらに間もなくして夫は心労で亡くなってしまった。寝たきりの親と乳飲み子を抱えながら、おまさは必死に働くが女手一つでどうすることも出来ない。しまいにはお乳が出なくなりついには善太郎を捨ててしまった。ところがそれから三日経って親が亡くなり、急いで子供を捨てた場所に戻ったが既に行方知れずになってしまった。なんということをしてしまったのか、おまさは呵責の念にかられ、巡礼姿で子供を探す旅にへと出た。
 しかし十数年経っても何もわからず、身体は弱ってくるばかり。ある日、前を流れる川に身を投げようとすると親切な男に助けられる。事情を話すと、男は一か月ほど前、この地を訪れた説教師が何やら和歌の上の句を詠んでいたことを話す。説教師は越後路の方へ向かったらしい。おまさもそちらの方へ向かう。
 明治2年2月28日、越後長岡の城下より少し離れた場所に、土地の名刹、満福寺がある。ここで今評判の説教師、善真が10日間の法話を開講している。その10日目、本堂は善男善女でごった返している。いつものように善真は「子を捨つる野毛の浦風身にしめど」と和歌の上の句を詠み、この下の句をご存知の方はないかと尋ねる。すると本堂の隅から「捨てずばなどて親を助けん」と詠む声が聞こえる。「母上でございますか」。高座より飛び降りた善真は女巡礼・おまさの前に向かう。おまさは「善太郎かい」と尋ねる。善真は「はい、良くぞ生きていて下さいました」と答える。高座へ戻った善真は大説教を説き、聴衆も涙したという。




参考口演:一龍斎貞橘

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