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『長曽祢虎徹(吉原虎徹)』あらすじ

(ながそねこてつ・よしわらこてつ)



【解説】
 長曽祢興里(ながそねおきさと)(?〜1678)は江戸時代初期の刀工。江戸新刀の名工であった。剃髪した後は入道名を虎徹(こてつ)と名乗っている。興里はもとは甲冑師であったが、太平の世になって甲冑の需要が減ったため、50歳を過ぎてから江戸に出て刀鍛冶になったという言い伝えがある。この読物はその伝説を基にしたものであろう。

【あらすじ】
 徳川の将軍が4代家綱であった頃の話。当時の加賀藩藩主は前田利常である。「金沢に過ぎたるものが二つあり刀正次(まさつぐ)兜興里(おきさと)」。正次は刀鍛冶の名工であり、彼が打ち上げた刀であればどんな鎧・兜でも斬れるという。一方、興里は兜製作の名人で彼の拵えた兜はどんな刀でも斬れないという。では正次の作った刀で興里の作った兜を斬ろうとするとどうなるのか。金沢の城下ではそんな好奇に満ちた話が持ち上がる。これを前田利常公が聞きつけ2人を呼びつけ実際に試してみることになった。
 5月5日、屋敷の庭園に正次、興里の両名が招き入れられる。白木の台に置かれた興里作の兜を、真っ向上段から正次は刀を振り上げまさに斬り下ろそうとするとき、「しばらく」と遮る興里の声が掛かる。位置の具合が悪いと兜の置かれた場所を少しばかり動かす。正次はこれで気勢を削がれてしまった。改めて上段から刀を振り下ろすが、兜は真っ二つにはならない。調べてみると兜の頂上の部分が少しばかり斬れ、刀は刃こぼれ一つしていない。「両者あっぱれ」ということで双方は褒美を与えられてその場は決着した。
 家に戻った興里は2人の弟子に打ち明ける。あのままでは兜は真っ二つに斬られていた。実はあの「しばらく」の声はわざと掛けた。なんて卑怯な真似をしたのかと悔恨する興里。今日限りで兜師を辞めて正次を見習い刀鍛冶になる、さらに金沢を離れ江戸へ出るという。一方で、正次は夜逃げをし金沢の城下から消え去ったと聞かされる。
 興里と弟子2人は江戸へ出て修行を積み、3年後には評判の刀鍛冶になる。彼の打った刀には故郷の江州の地名をとって「長曽祢虎徹(ながそねこてつ)」の銘が入れられている。ある日、紀州藩の保坂彦右衛門という者が訪ねてきて30日の期限で刀を二振り拵えるよう依頼する。興里はこれを打ち上げるが、値は100両だという。それは高すぎると保坂は刀を受取らず帰ってしまう。
 今度は尾張藩の笹岡孝右衛門という者がやってくる。10日間の期限で18日までに刀を仕上げてもたいたいと言い、興里はこれを引き受ける。弟子の1人の興光(おきみつ)が部屋を去ったあと見ると1通の手紙が落ちている。興里がこれを見ると、吉原の高窓という花魁が興光に宛てた手紙である。実は高窓は正次の娘でお花といい、失意のうちに親子で金沢の城下を去り江戸へたどり着くが、正次は重い病にかかり止む無くお花は吉原に身を売る。その正次も死んでしまい身を寄せる者もいなくなった時に、興里の弟子である興光出会う。憎しむべき父の仇の弟子ではあったがやがて共に想い想われる仲になる。しかし仙台の客から身請けをする話を持ち掛けられ、その返事の期限は18日である。もし興光と添い遂げられないのなら一緒に心中してしまおうという。
 興里は尾張様から依頼された刀を作成し、訪ねてきた笹岡にこれを引き渡す。値は500両だという。あまりに高額なので笹岡は300両まで値切ろうとするが興里はビタ一文負けない。どうしても殿がご所望の品だからと仕方なく笹岡は買い求めるが、怒りながら帰っていく。興里はこの金を持って、すぐさま吉原の高窓のいる廓へと駕籠に乗って駆け付ける。今まさに高窓と興光が剃刀の刃を当て心中しようというところで、これを制止する。刀を売った金の一部を使って高窓を身請けするので、高窓と興光で夫婦になってくれと言う。「憎い憎いと思っていたあなた様ですがこれからは実の父親だと思います」抱き合って喜び合う興里と高窓。
 身請けや婚礼で300両という金がかかり、興里は残りの200両を事情を話して、笹岡孝右衛門に返却しに行く。これが縁でお屋敷への出入りが許され、さらに方々のお家から注文を受けるようになり、「長曽祢虎徹」または「吉原虎徹」として後世に名の残る刀鍛冶の名工になったという。




参考口演:宝井琴梅

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