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『佐倉義民伝〜甚兵衛渡し場』あらすじ

(さくらぎみんでん〜じんべえわたしば)



【解説】
 歌舞伎や浄瑠璃でも有名な『佐倉義民伝』であるが、史料の不足からその実態はよく分かっていない。地方巡演を業としていた講釈師が佐倉宗吾の伝記を語り、それが講談「佐倉義民伝」を形成したと考えられる。佐倉義民伝の中でも「甚兵衛渡し場」はもっともよく掛かる部分であろう。

【あらすじ】
 承応年間、4代将軍家綱の時代、下総佐倉藩11万石の城代家老を務めていた堀田玄蕃(げんば)。野心ある玄蕃は印旛沼の干拓と新田開発に乗り出すが、工事は難航し藩の財政はひっ迫する。玄蕃はそれを穴埋めするするために年貢を2割増しにした。領内229ヶ村の民百姓の苦しみは筆舌に尽くしがたい。これに立ち上がったのが公津の名主、木内惣五郎で、江戸に出て幕府に直訴する。この訴えを聞いた酒井雅楽頭(うたのかみ)は佐倉藩の藩主である堀田正信にそれとなく意見するが、正信はかえって反発する始末。惣五郎の扱いに困った雅楽頭。徳川家の菩提所である上野三十六坊の凌雲院の大僧正・円寿院に惣五郎の身を預ける。これはもう将軍家に直訴するしか手立てはないが、そうなると惣五郎への重いお仕置きは避けられないし、さらに女房、子供にも累が及ぶ。そうならないようにと今のうちに国許に帰ったらどうかと円寿院は勧める。
 上野三十六坊お出入りの駕籠屋、井筒屋五郎兵衛は義侠心のある男である。惣五郎はこの五郎兵衛と共に、江戸を発ち、市川、八幡、鎌ヶ谷、安食と過ぎ中宿まで来る。ここで泊ったのが島屋源兵衛という者の宿である。この宿には隠し部屋があり、惣五郎はここに匿われる。この宿に堀田の役人である多賀四郎兵衛が目明し2人と共に乗り込む。四郎兵衛は惣五郎はいないかと詰め寄るが、駕籠屋の井筒屋五郎兵衛は宮様のおわす上野三十六坊に出入りが許されている自分への非礼ぶりに怒りだす。島屋源兵衛が酒や豪華な料理を用意すると両者は仲直りするが、このご馳走の支払いは四郎兵衛持ちであると聞かされる。しかも額があまりに高額なので、四郎兵衛は逃げ出してしまった。
 雪の降る夜、惣五郎は松崎の渡し場へと行く。渡し守の甚兵衛にすぐに舟を出して欲しいというが、惣五郎を追う堀田の役人の命令で暮れ六つから明け六つまで、鉄の鎖で舟は繋がれてしまっている。惣五郎が民百姓を救うため力を尽くしていることを知っている甚兵衛はその鎖を斧で引き裂いてしまう。こうして水神の森へと舟は着き、惣五郎は真夜中の一面の雪の中、家へと向かう。女房と子供3人のいる家へと辿り着いた。惣五郎は女房のおきんに離縁状を手渡すが、おきんは自分も死ぬ覚悟だという。幼い子供たちは村の者たちが育ててくれるだろう。そこへ子供の惣兵衛、源助が起きてくる。裾にすがりつく子供たちを払いのけ、ピシャッと戸を閉め女房、子供と涙の別れをする。
 甚兵衛の待つ水神の森へと急ぐ惣五郎だが、土手を歩いているところで、目明しの喜右衛門という者にその姿を見られる。喜右衛門は惣五郎を捕らえようとし、2人揉み合いになる。そこへ惣五郎の帰りが遅いと様子を見に来た甚兵衛は舟の板子でもって喜右衛門の脳天を打ち絶命させ、印旛沼へドボンと投げ込む。こうして無事に惣五郎を松崎の船着き場まで渡し、西へ向かう惣五郎を見送りながら、甚兵衛は自らも沼に身を投げるのであった。甚兵衛の死に報いるためにも将軍家への直訴をしなければと決意する惣五郎であった。




参考口演:宝井琴星

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