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『黒田節の由来(母里太兵衛)』あらすじ

(くろだぶしのゆらい・もりたへえ)


【解説】
 『黒田武士』『母里太兵衛』『日本号と母里太兵衛』などの演題が使われることもある。母里(もり)太兵衛が福島正則から名槍「日本号」を譲り受けたエピソードは、講談のみならず広く知られており、大河ドラマでも取り上げられたほどである。
 福岡・黒田家の重臣の母里太兵衛は、使者として広島・福島正則の元を訪れる。帰りがけに正則は太兵衛に酒を飲んでいくよう勧める。最初のうちは太兵衛は断るが、酒を飲んだら望みのものは何でも与えるとまで正則は言うので仕方ない。太兵衛は盃に盛られた酒を飲む。三升の酒をあっという間に飲み干してしまった。太兵衛が所望したのは、秀吉が帝から賜った「日本号」という天下の名槍であった…。

【あらすじ】
 天正13年、豊臣秀吉が関白の御位を賜った折、時の帝、正親町(おおぎまち)天皇より一振りの御剣を頂いた。これは郷義弘(ごうのよしひろ)という刀鍛冶が鍛えたもので、秀吉はこれに5尺の柄を付けて槍として、己の命の次に大切にした。天正18年、小田原・北条攻めで、三島から攻撃したのが福島正則だが、敵中を突いている際に槍を折ってしまった。この様子を本陣から見ていた秀吉は、「これを使え」と帝から賜った刀を作り替えた槍を差し出した。この槍でもって正則は獅子奮迅の活躍をし、ついには北条を破り、関八州は秀吉が征服した。大坂城に凱旋した秀吉は正則を呼び寄せる。先の槍を「日本号」と名付けて正則に与えた。広島50万石の城主となった正則にとってはこの槍は何よりの自慢である。
 ある日のこと正則の元に、筑前国・福岡45万石の黒田家から使者に来たのは重臣である母里太兵衛(もりたへえ)という者である。つつがなく用を終え、福岡へ帰ろうとした時に正則に呼び止められ酒を勧められる。太兵衛は自分は下戸であるからとこれを断るが、実は太兵衛は1斗の酒を軽く飲んでしまうような大変な酒豪である。それでも正則は無理矢理引き留めて酒を飲ませようとするが、やはり太兵衛は固辞する。彼は酒飲みの上に酒癖が悪いので、正則の元に行っている間は決して酒は飲まないと主君の黒田政長と約束していたのだ。ついには正則は一口酒を飲めば欲しい物はなんでも与えると言い出す。これを聞いた太兵衛は酒を飲むことにした。
 太兵衛の前には一升入りの盃が用意される。太兵衛は一気にこれを飲み干してしまった。この勢いで三升の酒をあっという間に飲んでしまう。「なんでも下さると仰いましたな」。太兵衛は日本号の槍を所望するが、正則はこればかりは渡せないと断る。太兵衛は約束を反故にした嘘つきと全国中に言いふらすと言うと、正則も仕方なく槍を渡す。
 あれほどに酒を飲んだ太兵衛は酔っぱらって往来で寝ているかも知れない。そこまで行って槍を取り返して参れ、と正則は家来の者に言い付けるが、太兵衛は酔った様子もなく悠然と歩いている。福島家の豪傑で桂市兵衛という者がおり、彼から太兵衛が3斗4斗の酒を飲み干してしまうような大変な酒豪であることを聞かされる。正則は悔しがるがもうどうにもならない。
 堂々と母里太兵衛は福岡へ帰ってくる。このことが大変な評判となり太兵衛は黒田武士の鑑だと言われるようになる。「酒は飲め飲め飲むならば、日ノ本一のこの槍を」。これがきっかけで今にも残る黒田節が歌われるようになったという「黒田節の由来」という一席。




参考口演:六代目宝井馬琴

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