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『木津の勘助(勘助島の由来)』あらすじ

(きづのかんすけ・かんすけじまのゆらい)




【解説】
 『勘助島の由来』という演題でも演じられる。木津勘助(1587〜1661)年は相模国足柄山(今の神奈川県)の生まれ。江戸時代前期の土木技師で開拓者。木津川の治水や、また砂州である姫島に堤防を築いて勘助島を開発するなど、大坂の発展に大いに貢献する。1639(寛永16)年の冷害の折には、大阪城の米蔵を破って、庶民の救済にあたるなど、その男っぷりでも有名になった。

【あらすじ】
 大坂から3里ほど南、木津という場所に勘助という若者がいた。侍の息子で文武両道に秀でていたが、父親、母親を相次いで亡くし侍の生活に嫌気がさしたのか、町人になり日傭取りとして日々を暮らす。ある日のこと、母親の命日で大坂まで墓参りに行く。帰ろうとすると大きな墓の傍らに袱紗(ふくさ)包みがあり、中をみると30両という大金と書付が入っている。持ち主は淀屋十兵衛という長者番付にまで載ろうという大町人であり、早速届けると大喜びである。十兵衛は礼として5両を勘助に渡そうとするが、自分がごとき日傭取りがこんな大金は受け取れない、どうぞ大掃除の折などに呼んで下さいと勘助はいう。感心する十兵衛。十兵衛には18歳のお直という絶世の美人の娘がいる。お直は一目見た勘助にすっかり惚れてしまった。
 十兵衛は木津まで出向き、土地の人たちに勘助のことを尋ねると大層評判が良い。勘助の元を訪ねた十兵衛は、娘を嫁に貰って欲しいという。丁重に断る勘助だが、十兵衛はどうしてもと重ねて言う。もとより豪奢なことの嫌いな勘助は、淀屋十兵衛の娘としてでは無く、身ひとつで持参金も嫁入り道具も無しで自分の元に来るなら受けいれると答えた。
 こうしてお直は勘助の元に嫁いだ。井戸端に集まっていたおかみさん連中が水汲みや部屋の片づけを手伝ってくれ、そのお礼として酒盛りをする。そんなこんなで暮れには勘助は3両という借金を抱える。お直はいつでも勘助が1000両を受け取れるという書状を見せる。お直の父親が所帯なれない娘のために渡しておいたものであった。勘助は借金を返したが、まだ大金が残っている。なにかこれで商売を始めよう。公のためになることをしよう。淀川に島、今でいう堤防を造って洪水を防ぎ、多くの人々から感謝される。現在では堤防は埋め立てられたが、「勘助町」という町名でその名を留めているという。




参考口演:神田陽子

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