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『明智左馬之助 湖水渡り』あらすじ

(あけちさまのすけ こすいわたり)


【解説】
 天正10年6月2日、京都・本能寺において明智光秀が謀反を起こし、織田信長は自害する。これは弔い合戦と羽柴秀吉は備中国から引き返し、摂津国と山城国の境にある山崎で光秀の軍を討ち破る(山崎の合戦)。その知らせを聞いた光秀の娘婿である明智左馬之助光俊(さまのすけみつとし)は、大津・打出浜から馬に乗ったまま琵琶湖の湖水を渡り、明智の本拠である坂本城まで向かう。この『湖水渡り』を雄々しく読み上げる部分が、この読物の要である。

【あらすじ】
 天正10年6月2日、都、本能寺において主君織田信長に反旗を翻したのが明智光秀であった。49歳で乱世の英雄らしく壮烈な最期を遂げた信長。ご主君が討たれたと知らせを聞いたのが臣下の羽柴筑前守秀吉で、毛利方の東端の備中高松城で水攻めの最中であった。すぐに引き返し、ご主君の弔い合戦なりと西国街道久我畷(こがなわて)で明智光秀と戦う。これが山崎の合戦である。光秀はこの戦いに敗れ、居城・坂本城をめざして落ち延びる途中、山城国・小栗栖村で農民の落武者狩りに遭って命を落とす。
 この合戦の後ろ備えとして、近江国蒲生郡安土の城を守っていたのが、光秀の娘婿である明智左馬之助光俊(あけちさまのすけみつとし)。合戦に敗れたとの知らせを聞いた左馬之助は坂本城にいる叔父の明智長閑斎(ちょうかんさい)と合流しようとする。300の手勢とともに天正10年6月14日、安土城を出発して、野洲川を越え草津を通って、大津の打出浜(うちではま)へと到着すると、8千の羽柴の軍勢と遭遇する。左馬之助は敵勢の中に入り込み、次々に斬りつけるが、みれば味方は一人残らず討たれてしまってもう誰もいない。坂本城に行くにはこの琵琶湖を渡るしかない。身軽になった左馬之助はただ一騎馬をパッパッパッパッと走らせ、琵琶の湖水にザンブとばかり馬を乗り入れる。愛馬の名は大鹿毛(おおかげ)である。
 馬に乗った左馬之助は見事、三里二十二丁の湖水を乗っ切る。岸にあがり、愛馬に別れを告げ、坂本城に入る。ここで主君の光秀は小栗栖村で殺されたのと知らせを聞く。もはやこの城で討ち死にするしかない。明智の血統を絶やしてはならないと、光秀の末の息子を夜闇に乗じて搦め手から脱出させる。城内にある名器・名宝をこのまま灰燼にしておくのは惜しい。目録を添えて敵方に渡す用意をする。
 今夜中に城を取り片付けて、明朝切腹するので、今宵の城攻めはご容赦願いたいと敵方に向かって叫ぶ。搦め手の扉を開き、女、子供、年寄りを逃がす。残った秀光の妻・お牧の方、叔父の明智長閑斎、左馬之助、妻の「さお」らは別れの水盃を交わす。まず長閑斎が命を絶ち、お牧の方は8歳になる光秀の総領息子の喉を刺し殺害する。お牧の方は勘助の介錯で、さおは左馬之助の介錯によって首を落される。城に火を放つとたちまち炎上する。三井寺の本陣にいた羽柴秀吉は「見事な最期じゃのう」とつぶやくのであった。




参考口演:六代目宝井馬琴

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