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『大久保彦左衛門 盥の登城』あらすじ

(おおくぼひこざえもん たらいのとじょう)


【解説】
 大久保彦左衛門(1560〜1639)は家康、秀忠、家光と3代にわたって徳川氏に仕えた武将で、「天下のご意見番」として名高い。講談の中でも「諫める役」としてしばしば登場するが、この「盥の登城」は数あるエピソードの中で最も有名なものであろう。
 新年の江戸城への登城の際に、外様大名と旗本との駕籠同士がぶつかり喧嘩となる。老中・松平伊豆守は、旗本に対して駕籠での登城を禁止するという厳しい処分を下した。これに不満を抱いた旗本連中が大久保彦左衛門に相談すると、彼は盥(たらい)に乗って登城するという珍妙な策を考え出した…。

【あらすじ】
 寛永十年正月のこと。元日、将軍への新年のご挨拶のため旗本衆、大名衆がこぞって千代田の城へ登城する。大手門は登城する駕籠、下城する駕籠でごった返している。するとここへ、出雲24万石、堀尾山城守忠晴(ただはる)の乗った駕籠と、徳川家直参の旗本で5千石を頂いている近藤馬左衛門の乗った駕籠が行き合う。外様大名と旗本であるから普段からいがみ合って仲が悪い。わざと双方がドーンとぶつかり合う。怒り狂って駕籠から降りて来たのは旗本の近藤馬左衛門で、気が短くしかも怪力の持ち主である。彼は堀尾の乗った駕籠をウーンと持ち上げて堀の中へと放り込んでしまう。
 なんとか騒ぎは収まったが、月番の老中、松平伊豆守によって堀尾は3日間の謹慎処分、一方、旗本の近藤馬左衛門の方は5千石から2千5百石への減封、並びに50日間の謹慎処分となる。また旗本八万騎は駕籠での登城を禁止されることになった。これを聞いて収まらないのが旗本連中で、旗本の頭目である大久保彦左衛門の屋敷に集まってくる。「喧嘩両成敗」という言葉があるのに、今回の処分は旗本ばかりに厳しすぎるとの不満の声があがる。これを聞いて彦左衛門にはとある考えがひらめいた。
 彦左衛門は神田三河町の久助という、江戸でも一番腕の良い桶屋を呼び寄せる。彼に何やら注文し、それから4日目、彦左衛門の屋敷に大きな盥(たらい)が届けられた。盥の底の方に4ヶ所の穴が開けられ、そこには縄が括りつけられ、上には天秤棒のような棒を通してある。盥にはフカフカの座布団が置かれ、彦左衛門は悠然とその上へ着座した。
 彦左衛門は担ぎ手を2人呼び、この盥でもって神田・日本橋を通って千代田のお城まで行くよう申し付けた。通りでは野次馬が面白そうにこの様を見物する。大手門の前には「下馬下乗」という高札が立っている。これは「馬を降りろ、駕籠を降りろ」という意味で、「下盥」とは書いていない。彦左衛門はこのまま中へ入れと言う。
 この騒ぎが老中・松平伊豆守の耳に入り、早速、彦左衛門は呼び出される。彦左衛門は旗本ばかりが厳しい責めを受けているのはいかがな物かと語ると、伊豆守は肥前・島原で不穏な動きがあるので今は外様大名の機嫌を損ねたくないと言う。結局、旗本の盥での登城は許されることになった。
 こうなると、こぞって旗本連中は盥でもって登城をするようになり、中には黒漆、紫檀の盥を使う者まで現れる。さすがに困惑した伊豆守は、後になり門前に「下盥」という札を新たに立てたという話である。寛永十四年、島原の乱が勃発し、松平伊豆守は10万の大軍でもってこれを鎮圧するが、この時、徳川方に離反する外様大名は1人としてなかったという。大久保彦左衛門の頓智と、松平伊豆守の智恵ですべてが丸く収まったという『大久保彦左衛門 盥の登城』という一席。





参考口演:宝井琴柑

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