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『依田孫四郎 下郎の忠節(鬼作左)』あらすじ

(よだまごしろう げろうのちゅうせつ・おにさくざ)



【解説】
 『依田孫四郎 下郎の忠節』あるいは単に『下郎の忠節』、または『鬼作左』という演題が使われる。
 本多重次(しげつぐ)(1529〜1596)は作左衛門(さくざえもん)と通称される武将で、戦国時代、家康の祖父の代から三代にわたり徳川氏に仕えた。怒りっぽくも厳格な人柄であり「鬼作左(おにさくざ)」という名でも知られている。「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は彼が戦の陣中から妻に宛てて書いた日本一短い手紙と言われている。
 家康には、依田孫四郎という家来がいるが女にだらしない。女人禁制の城中に女を連れ込み処刑されることになったが、孫四郎の下郎である又七が「鬼作左」こと本多作左衛門に助命を願う。作左衛門は家康から孫四郎の身を預かり、又七とともに逃がしてやる…。

【あらすじ】
 岡崎城徳川家康の若い家来、依田孫四郎は豪傑ではあるが女にだらしのない男で、女人禁制の城中に女を連れ込んでしまう。これに家康は怒り、孫四郎は処刑されることが決まる。孫四郎の下郎である又七は重臣である「鬼作左」こと本多作左衛門を訪ね、なんとか主人の命を助けて欲しいと願い出る。これを聞いた作左衛門は早速、翌日に家康のいる城へ登城する。家康には孫四郎がごとき半端者を斬るのに君の手を煩わせることはない。自分の屋敷で手討ちにすると話し、孫四郎、又七の2人を連れて屋敷へと帰る。手討ちは夜にするからと、2人に御馳走をさせる。夜、裏口をわざと開けておいて、2人を屋敷から逃がした。翌日、作左衛門は2人には逃げられたと家康に告げ切腹して責任を取るというが、彼は家康お気に入りの家臣であり、切腹は押しとどめられた。
 孫四郎と又七は5年間浪々としていた。又七は孫四郎に菜っ葉ばかりを食べさている。2人は毎朝「天下大乱、国家大変」と祈る。なにか戦で功を挙げる機会を伺っていたのだ。天正12年、家康と秀吉の間で小牧山の戦いが起ころうとしている。又七は鎧・兜、それに「この者依田孫四郎討ち取ったり」と記した木札を沢山用意する。戦いが始まり、孫四郎は次々に敵方の首を討ち取り、それに又七が木札を付ける。
 戦いは家康方の勝利で終わる。家康は首実検をするが、孫四郎が討ち取った首は大将のものも含め36個にも及び、この戦で一番の活躍である。しかし作左衛門から孫四郎は討ち死にしてしまったと聞かされる。家康は孫四郎の罪を許し、もし生きていたならば千石の加増を申し付けたであろうと言う。孫四郎の死骸を載せた戸板が家康の前に運ばれた。作左衛門が「よみがえれ」と不思議な呪文を唱えて戸板を叩くと、孫四郎の遺骸がムズムズと動き出し、ムクムクと起き出した。家康ら一同はみな驚く。「家康公の恩徳は冥府にまで及んで蘇生いたした」と作左衛門が言うと、家康は呆れ果てる。しかし一度口にしたことだがらと加増は叶った。これから孫四郎は立派な豪傑として知られるようになり、家康に長く仕えたと言う。




参考口演:田辺凌鶴

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