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『伊藤孫兵衛』あらすじ

(いとうまごべえ)


【解説】
 伊藤孫兵衛という剣術家は水戸藩に実在したが、生年が慶長9(1604)年で没年が寛文12(1672)年である。幕末を舞台とするこの読物とはまるで時代が合わない。
 殿である徳川斉昭(なりあき)を剣で打ち込みすっかり不興を買ってしまった伊藤孫兵衛。斉昭から閉門を言い付けられる。はたして孫兵衛は許されるのか。斉昭と孫兵衛、それぞれの思いが交錯する…。

【あらすじ】
 水戸徳川家九代目藩主の徳川斉昭(なりあき)は、こうも太平の世が続いていては武道が衰えてしまうと考えている。誰か優れた剣術の先生を水戸家の指南番として迎えたいと家来の者たちに探させる。神田・お玉ヶ池の北辰一刀流の道場主、千葉周作が候補にあがり早速使いをよこすが、すで大勢の門弟を抱えており水戸家に仕官する余裕はないと言う。そこで道場の中から選りすぐって海保帆平(かいほはんぺい)という者を水戸家に送ることにする。
 さて、水戸家では藩主・斉昭も自ら木剣をとって剣術の勝負に臨むが、殿様が相手では怪我でもさせたら大変と、家来の中で本気で立ち会う者はいない。斉昭は誰ひとり打ち込む者がいないのを不思議に思う。はて、これは今流行の言葉で言えば『忖度』というものか。斉昭は臣下の者が主人に打ち込んだとしても不忠ではない。真(まこと)に負けたのか、わざと負けたのか返答せよと迫る。家来の者たちは頭を下げたまま何も答えることが出来無い。
 その時後ろの方でイビキをかいて寝ている者がいる。白髪交じりで毛の薄い五十年配の男で伊藤孫兵衛という。無礼な奴と叩き起こすと、寝たふりをして話はちゃんと聞いていたと言う。孫兵衛が殿はただ剣を振り回しているだけだと言うと、斉昭は激怒する。「余の相手をいたせ」。素面素小手(すめんすこて)、防具無しで二人は立ち会う。孫兵衛は斉昭のツムリをピシャリと打ち込む。斉昭は「かすったな」と言う。続いて孫兵衛は斉昭の眉間の真ん中を勢いよく叩く。気を失ってしまった斉昭。家臣の者たちは医者を呼び、薬を与えて介抱する。間もなく斉昭は意識を取り戻すが、孫兵衛に対して不届き千万と閉門を申し付ける。斉昭には考えがあった。世間では自分は文武両道に秀でた殿様だと思われている。『武』の方では孫兵衛に敵わなかったが、閉門になった彼は、今度は自らの窮状を歌や詩で訴えてくるだろう。そうしたらもっと優れた形で返答して、『文』ではこちらの方が勝っていることを見せつけてやろう、こういう考えである。
 二、三日経ち、孫兵衛はそろそろ赦免されるだろうと待っているが、殿様からの使者の者は一向にやってこない。妻や18歳になる倅の次郎も気を揉んでいる。それから数日経っても使者がやってくることはなかった。
 七日目、今日は9月13日で十三夜の月見の日である。先月の8月15日、殿様とは千波池(せんばいけ)に映る月を見ながらお歌合わせをする予定だったが、あいにくと昼過ぎから雨が降り出して中止になってしまった。そこで今度の13日の夜に改めてお歌合わせをしようと約束をしていたのだが、それも叶わぬのか。孫兵衛は切腹をする覚悟を決める。武士の心得十五条を記した建白書を用意していたが、閉門が許されぬ身では殿にご意見することも出来ない。30年連れ添った妻も孫兵衛の後を追って自害すると言い、また倅の次郎には自分が亡きあと、建白書を殿に差し出して欲しいと言い残す。孫兵衛の様子が気になっていた斉昭はわずかの供を連れて彼の屋敷の庭に密かに来ていた。中からの話し声を聞いた斉昭は孫兵衛が赦免されるのを待っていたことを初めて知り、剛直な者だとつくづく思う。やにわに屋敷の中に入り込み、赦免の沙汰を申し付ける。孫兵衛と倅の次郎は百石ずつのご加増となり、刀一振りを賜る。
 この後、斉昭は過激な尊王攘夷論を展開し、謹慎の処分を受ける。また水戸の浪士たちは桜田門外の変で宿敵、井伊直弼を倒す。『剛直武士 伊藤孫兵衛』という一席。




参考口演:宝井琴柑

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